平衡盛考
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 01:28 UTC 版)
家祖とされる平衡盛の「衡」という漢字から、奥州藤原氏の郎党だったと言う説もある。衡という漢字は奥州藤原氏が通字として使用しており、歴代当主以外の人物も使っていた。衡盛の「衡」は、藤原氏からの偏諱を受けて付けていたものと推察される。また、本拠地とされる滴石も藤原清衡の母方の安倍氏の本貫地の厨川に極めて近いことから、奥州藤原氏の中でもそれなりの地位にあったものと考えられる。以上を踏まえた上で、滴石に古くから土着していた荘園の開発領主と言うのが、その実態であり、奥州征伐の時に藤原氏に協力しなかったことから辛うじて家名存続を許されたが、新しくきた関東御家人の圧迫を受けて、出羽国に移っていったという説が奥州藤原氏郎党説である。
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