萩野・仁田山鹿子踊
名称: | 萩野・仁田山鹿子踊 |
ふりがな: | おぎのにたやまししおどり |
種別1: | 民俗芸能 |
保護団体名: | 萩野、仁田山鹿子踊保存会 |
選択年月日: | 1976.12.25(昭和51.12.25) |
都道府県(列記): | 山形県 |
市区町村(列記): | 新庄市大字萩野,新庄市宇仁田山 |
代表都道府県: | 山形県 |
備考: | 所在地が同一都道府県内のもの(このデータは種別1から移行しています) |
解説文: | 萩野と仁田山の両部落に伝承されている鹿子踊で、新庄祭の三日目にあたる八月二十六日、戸沢神社に奉納される。このほか不定期に演じられることもある。一人立ちの鹿子七匹による踊で、いずれも頭から爪先まで垂れた長幕をかぶり、股引にわらじをはく。七匹の鹿子は、中鹿子、勝鹿子、負鹿子、谷の牡鹿子、前の牡鹿子が各一匹、後の牡鹿子が二匹である。囃子方は歌い手二人で、手に太い割り竹ざさらを持ち、それをすりながら歌う。曲には庭入り(マリコとも)、館まいり、狂い、投草、引き庭などがある。振りの美しい鹿子踊で、この地方に多い鹿子踊の中でも特色のあるものである。 |
萩野・仁田山鹿子踊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/06 14:53 UTC 版)
萩野・仁田山鹿子踊(はぎのにたやまししおどり)は、山形県新庄市萩野、仁田山(旧萩野村)地域に伝わる踊り。踊りの中心となる7頭の鹿子(しし)はカモシカを指し、獅子踊りとも表記される。1966年に山形県の無形民俗文化財に指定されている。
毎年8月26日、新庄まつりにあわせて新庄城址の戸沢神社と護国神社にて踊りが奉納されている[1]。
伝承・歴史
起源は諸説あるが、天平時代に大野東人が蝦夷討伐を行ったおり、尖兵らが野営のつれづれを慰めるために仁田山の地蔵堂の前で踊り始めたとも、村の古老が小倉山で獅子が躍るのを見て真似たとも言い伝えられている[2]。いずれにしても古い時代から地域一帯で踊り伝えられてきたもので、最上義光が領内の鹿子踊の踊り手を集めて踊らせた記録もある。最上氏が転封後は戸沢氏の庇護を受け、五穀豊穣領内安全を祈願して踊りとして地域ごとに競いあっていたが、廃藩置県により衰退。明治時代以降は萩野と仁田山のみが踊りを復活させて伝え続けてきた[3]。
脚注
関連項目
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