寺内家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/17 01:44 UTC 版)
寺内家 | |
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本姓 | 称・桓武平氏忠正流 |
家祖 | 寺内経盛 |
種別 | 武家 士族 華族(子爵→伯爵) |
出身地 | 陸奥国行方郡寺内 |
主な根拠地 | 陸奥国 和泉国 周防国 長門国 神奈川県中郡大磯町 |
著名な人物 | 寺内正毅 寺内壽一 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
寺内家(てらうちけ)は、桓武平氏忠正流戸沢氏庶流と伝わる武家・士族・華族だった日本の家。近世には長門国萩藩主毛利家に仕え、近代には第18代内閣総理大臣を務めた寺内正毅元帥を輩出し、その勲功により華族の子爵家、のち伯爵家に列した[1]。
歴史
寺内家は出羽国戸沢氏の庶流である戸沢宮内少輔経盛が陸奥国行方郡寺内に住して寺内氏と称したのに始まると伝わる[2][1]。
経盛の次男寺内駿河守政盛が応永年間中に兵部卿師成親王を奉じて和泉国へ移り、大内左京大夫義弘に援軍して前将軍入道義道(足利義満)と堺で戦うも利あらず親王を奉じて西走し、大内氏の本領である周防国へ移った[2]。大内六郎盛見はその義に感心して迎え入れ、御掘の乗福院を館として与えた[2]。これをきっかけに政盛の子孫は代々大内氏に仕えるようになった[2]。
天文20年(1551年)に大内氏重臣陶晴賢が大内義隆に反乱を起こした際には寺内一族は義隆のために戦ったが、戦死した者や陶に降伏する者などが出た[2]。政盛から6代後の子孫である七郎左衛門為盛の代に毛利右馬頭元就に仕えるようになった。その曽孫である良盛の代に関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元が防長二国に減封されたことで家臣たちの減封や放逐があり、良盛も微禄の下士にされてしまった[3]。以降寺内家は長州藩士家として続く[3]。

近代の当主寺内正毅(嘉永5年2月5日生、大正8年11月3日没)は、長州藩士宇多田正輔の三男で同藩士寺内勘右衛門の養子に入って寺内家を相続した人物である。正毅の実家の宇多田家の子孫には歌手の宇多田ヒカルがある。宇多田ヒカルは正毅にとっては「曾姪孫」にあたる[4]。
正毅は戊辰戦争出征後、陸軍に入隊して陸軍大将まで累進。その間、士官学校長、参謀本部第一局長、歩兵第三旅団長、教育総監、参謀本部次長、鉄道会議議長などを歴任[1]。明治35年に第1次桂内閣に陸軍大臣として入閣。この際の日露戦争における戦功により、明治40年(1907年)9月21日に華族の子爵位を与えられた[1][5]。明治43年(1910年)には朝鮮総督に就任し、その際の日韓併合における勲功により明治44年(1911年)4月21日に伯爵に陞爵した[1][5]。大正5年(1916年)には第18代内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任し、また元帥府に列した[1]。
正毅が大正8年(1919年)11月3日に没した後、長男の壽一(明治12年8月8日生、昭和21年6月12日没)が爵位を継承。壽一も陸軍に入隊して累進し、昭和10年(1935年)に陸軍大将となる。昭和11年(1938年)には広田内閣で陸軍大臣として入閣し、昭和18年(1943年)に元帥府に列した[6]。彼の代の昭和前期に寺内伯爵家の住居は神奈川県中郡大磯町立野にあった[7]。壽一の妹サワは児玉秀雄伯爵、同須恵子は福羽真城子爵に嫁いだ[7]。
壽一には実子がなく、菊屋孫輔四男の嘉雄(昭和5年2月1日生)が壽一の養子に入って相続。彼の代の平成前期に寺内家の住居は神奈川県中郡大磯町東小磯にあった[1]。その息子に規景(昭和44年6月25日生)がある[1]。
系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 下巻』[1]に準拠。
寺内勘右衛門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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寺内正毅[† 1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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壽一 | サワ | 須恵子 | 毅雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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嘉雄[† 2] | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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規景 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
系譜注
脚注
出典
- ^ a b c d e f g h i 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 121.
- ^ a b c d e 元帥寺内伯爵伝記編纂所 1920, p. 55.
- ^ a b 元帥寺内伯爵伝記編纂所 1920, p. 56.
- ^ “明治150年記念連載 大磯歴史語り 第18回「寺内正毅【1】」文・武井久江”. タウンニュース社 (2019年3月18日). 2023年3月20日閲覧。
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 355.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 122.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 91.
参考文献
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。 ISBN 978-4642036702。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。 ISBN 978-4820540342。
- 元帥寺内伯爵伝記編纂所『元帥寺内伯爵伝 再版』元帥寺内伯爵伝記編纂所、1920年(大正9年)。
寺内家
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「限界団地 (テレビドラマ)」の記事における「寺内家」の解説
寺内誠司〈62〉 演 - 佐野史郎(幼少時代:寺内勇貴、中学生時代:福崎那由他) 本作の主人公。元々あやめ町団地の住人だったが、息子の結婚を機に離れていたものの息子夫婦が火事で亡くなったのを機に団地に父・仁と孫・穂乃花を連れて移り住む。一家で暮らす部屋のほか、「幽霊部屋」と呼ばれるかつて暮らしていた部屋も借り上げており、自分の不都合や荷物をしまう倉庫(後に潜伏先)として使っていた。 息子夫婦の死は煙草の不始末だとされていたが、実際には誠司が二人を気絶させた後に息子一家の家に火をつけて殺害。息子夫婦の死亡保険金などにより、億単位の現金を保有している。穂乃花同様、息子夫婦には愛情を見せる素振りは一切ない。 大学教授だった妻の生前、定年退職前にリストラにあい、専業主夫として暮らしていたため、裁縫や料理を含む生活能力が非常に高い。また外面が良く、次々と団地を改革していくなど行動力もあり、団地の住民からの信頼は厚いが、その裏で団地を自らの理想郷と捉え、溺愛する穂乃花のためにも、その平穏と安寧を保つことに異常に執着している。そのためには手段を問わず、周りの人間を次々と罠にはめ、穂乃花に横柄な態度をとった独居老人のほか、最初に移り住んだ頃の知人でもお構いなしに次々と殺害・追放していく。その姿を自称スーパーヒーロー「ダンチマン」と位置づけている。 第5話での仁からの暴露を受け、第6話での金田に調査を依頼した結果、死別した妻に生前浮気されていたことを知り、理想の家族とは程遠い生活をしていたことを思い知らされる。その後、妻の墓前で妻の浮気を許すとしたが、代償として「君が生んだ子どもたちとはお別れだ」と共に収められていた息子夫婦の遺骨を(穂乃花の正気を取り戻させるための除霊の意味も込めて)ドラム缶に放り込み焼却処分する。 第8話冒頭で起きた事件にて、江理子に刺されるも、血だらけになりながら穂乃果を追って外に出て、河川敷で高志に殴られ転落する。その際に頭を強く打ち10ヶ月もの間昏睡状態となる。しかしその後、奇跡的に回復し、病室から脱走。引き続き裏で繋がっていた金田の情報を頼りに、江理子を殺そうとしていた高志を絞殺する。最終的には、穂乃果の8歳の誕生日を前に江理子に潜伏場所を通報され、殺人容疑で逮捕されるが、その後の取り調べの際もなお「刑務所内でも回覧板を回しますよ」と団地に執着する様子を見せた。 寺内穂乃花〈6〉 演 - 渡邊詩 誠司の孫。誠司を「おじいちゃん」と呼び慕っている。誠司曰く「両親は穂乃花を傷つけることしかしなかった」らしく、家族愛に恵まれない家庭環境で育った過去を持つこともあり、愛情に飢えている。時折亡き両親の霊が見えているかのような言動を行う。 実は誠司が実行した両親殺害を含む一連の事件の真相を全て知っていた。ある日、亡き両親の霊と会話したそぶりを見せた後、一言も発しなくなり、川に飛び降りて自殺未遂をする。 最終話にて、誠司と江理子の修羅場を目撃し、誠司を「ひとごろし」「だいっきらい」「しんじゃえ」などと罵倒し突き放す。後にそのことを後悔し、江理子に「(おじいちゃんに)謝りたい」と話すが、誠司の逮捕でそれも叶わなくなった。一連の事件後、桜井家の養女として江理子の下で暮らすようになる。 寺内仁〈84〉 演 - 山谷初男 誠司の父。穂乃花の曽祖父。穂乃花からは「ひいおじいちゃん」と呼び慕われている。歳のせいか物忘れが激しく、誠司との老老介護状態だったが、実際には孫夫婦を殺した誠司が恐ろしくなり、ボケたふりをしていた。 誠司が加代子の夫を殺したことを知る数少ない人物であり、妻との生活を壊したくない一心でそのことを50年間隠し続けてきた。しかし息子夫婦を手にかけて以降狂っていった誠司を止めるべく、「誠司の妻が大学の同僚と不倫していたこと」「加代子の夫や孫夫婦を殺したこと」を住人に暴露するなど、誠司への警告と住民へのSOSを発信していたが、そのことを誠司に見抜かれ恫喝され続けたトラウマが原因で本当に認知症となってしまい、老人ホームへと入所する。
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