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寺内寿一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/02 21:07 UTC 版)

寺内 てらうち 寿一 ひさいち
寺內 壽一
生年月日 1879年8月8日
出生地 日本 東京府[1]
没年月日 (1946-06-12) 1946年6月12日(66歳没)
死没地 マラヤ レンガム
出身校 陸軍士官学校(11期)
陸軍大学校(21期)
称号 元帥陸軍大将
従二位
勲一等旭日大綬章
功一級金鵄勲章
伯爵
親族 寺内正毅(父)
寺内毅雄(弟)

第24代 陸軍大臣
内閣 廣田内閣
在任期間 1936年3月9日 - 1937年2月2日
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寺内 寿一(てらうち ひさいち、 旧字体寺內 壽一1879年明治12年)8月8日 - 1946年昭和21年)6月12日)は、日本陸軍軍人政治家。最終階級元帥陸軍大将位階従二位勲等勲一等功級功一級爵位伯爵東京府生まれ、東京府育ち[1]山口県出身。

第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では陸海軍を通して親子2代で元帥府に列せられた唯一の人物である。

陸軍大臣在任時は、衛生省(厚生省、現・厚生労働省)の設立を提唱。太平洋戦争期には、編成時から一貫して南方戦線の陸軍部隊を統括する南方軍総司令官を務めた。

生涯

1936年、陸軍大臣当時の寺内(左端)
  • 1937年(昭和12年)1月 政友会の代議士浜田国松腹切り問答
  • 二・二六事件の後、陸相として皇道派の追放(粛軍)を主導し、「追放された連中が陸相になれないように」との口実で軍部大臣現役武官制を復活させる等、軍部の影響力を増大させている。また、1937年(昭和12年)1月21日、「腹切り問答」後に議会解散を要求し、二日間の議会停会の後、廣田内閣を総辞職に追い込んだ。
    「腹切り問答」の際に壇上から浜田国松議員を睨みつける寺内、奥が広田総理
  • 廣田内閣総辞職後、宇垣一成に組閣の大命が降下されるが、湯浅倉平内大臣の事前打診に「もういい時分だ」と確言したにもかかわらず、石原莞爾ら陸軍中堅将校の猛反対を背景に陸相を推挙せず、宇垣内閣を流産に導く。宇垣は陸相在任時、予備役編入が内定した寺内の「母の胎内にいる時から陸軍に育った私です。任地は由良でも澎湖島の要塞でも結構ですから、どうか一生陸軍に置いて頂きたい」との言葉にほだされ、彼を現役に留めた恩人であった[2]
  • 1937年(昭和12年)2月 教育総監
  • 1937年(昭和12年)8月 北支那方面軍司令官
1938年、北支那方面軍司令官当時の寺内(右)。同年生まれで陸士陸大では1期後輩であり、のちに同じく元帥となる中支那派遣軍司令官当時の畑俊六大将(左)とともに
1942年、シンガポールにおいて南方軍総司令官当時の寺内(中央)
  • 1945年(昭和20年)9月12日 シンガポールで降伏文書調印式が行われるが、病床にあったために出席できず、隷下の第7方面軍司令官で実質的な南方軍総司令官であった板垣征四郎大将が代理出席した[3]
  • 1946年(昭和21年)6月12日マレーシアのレンガムで拘留中に脳溢血のため死去[4]。享年68(満66歳没)。シンガポールの日本人墓地に記念墓がある他、山口市の山崎陸軍墓地にも墓所がある。
シンガポールにある「南方軍総司令官寺内元帥之墓」

逸話

  • 育ちが良く、周囲や部下に細密な気配りができ、陸軍では下士官や兵に人気があった。ただ、一方で幼少時は同級生を暴行していたとも伝えられる。作家永井荷風とは高等師範学校附属尋常中学校時代の同窓生(永井は病気で休学していた期間があり、復学した時に同期となった)だが、山田風太郎の回想によると、軟派学生だった永井を看過出来なかった寺内は、永井に対して暴行を加えたこともあったという[5]
  • 松前重義東條英機によって懲罰召集され、勅任官である逓信省局長にもかかわらず、二等兵として南方に送られて来た際には、総司令官名での辞令を連発して、事実上スーツ姿で軍政顧問として働くようにさせた。陸軍の最長老で元帥でもある寺内にはさすがの東條もやり返せず、そのままになったが、そもそも松前が南方に送られたのは東条失脚の後である。長州閥に敵愾心を燃やした東條と長州閥のボスだった寺内正毅を父に持つ寺内寿一との関係は微妙なものがあった。
  • 戦時中は埼玉県にある盆栽村の庇護者でもあり、ホテルのマネージャーをやってみたいと語ったこともある。なお、旧日本軍最後の軍歌『壮行譜』は、寺内が収監された時に贈られた曲である。
  • 身長は170cm以上と、明治初期の生まれとしては高身長であった。

人物

陸軍元帥華族の子息として生を受けるという恵まれた環境に育ち、身体的特徴としても容姿端麗で長身でであり、性格としては清潔、恬淡を旨とし金銭欲、権力欲、政治的野心のない純粋な軍人肌の人物であったとされる [6][7]

栄典

位階
勲章等

家族

子がなかったため、妻の姪を4歳から育て、その婿に萩銀行頭取で大地主の菊屋剛十郎の孫・嘉雄を迎え、跡継ぎとした[16][17]

出典

  1. ^ a b c 国立国会図書館デジタルコレクション『大将の少年時代』174頁189頁 (著者:中田千畝 出版者:実業之日本社 発行:1938年(昭和13年)8月1日) (2018年11月19日閲覧。)
  2. ^ 渡邊行男「宇垣一成」1993年 中公新書
  3. ^ 日置英剛『年表 太平洋戦争全史』国書刊行会、2005年10月31日、759頁。ISBN 978-4-336-04719-9 
  4. ^ 『朝日新聞』 1946年6月14日
  5. ^ 山田風太郎 『人間臨終図巻徳間書店
  6. ^ 「陸軍元帥 寺内寿一 明治12年~昭和21年〔山口〕」『NIDS防衛研究所』
  7. ^ 寺内寿一刊行会, 上法快男編著1978『元帥寺内寿一』芙蓉書房
  8. ^ 『官報』第1024号「叙任及辞令」1915年12月29日。
  9. ^ 『官報』第2628号「叙任及辞令」1935年10月4日。
  10. ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
  11. ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。p3
  12. ^ 『官報』第2370号「叙任及辞令」1920年6月26日。
  13. ^ 『官報』第807号「叙任及辞令」1929年9月5日。
  14. ^ 『官報』第3487号「叙任及辞令」1938年8月17日。
  15. ^ 『官報』第4931号「叙任及辞令」1943年6月22日。
  16. ^ 『元帥寺內寿一』芙容書房、1978年、p132
  17. ^ 『持丸長者国家狂乱篇: 日本を動かした怪物たち』広瀬隆、ダイヤモンド社, 2007年、p227

関連文献

  • 『元帥寺内寿一』 同刊行会・上法快男編 「昭和軍事史叢書」芙蓉書房 1978年

関連項目

外部リンク

軍職
先代
原口初太郎
第5師団長
1930年 - 1932年
次代
二宮治重
先代
阿部信行
第4師団長
1932年 - 1934年
次代
東久邇宮稔彦王
先代
松井石根
台湾軍司令官
1934年 - 1935年
次代
柳川平助
先代
杉山元
教育総監
1937年
次代
畑俊六
先代
創設
北支那方面軍司令官
1937年 - 1938年
次代
杉山元
先代
創設
南方軍総司令官
1941年 - 1946年
次代
(代理)木下敏
公職
先代
川島義之
陸軍大臣
第42代:1936年 - 1937年
次代
中村孝太郎
日本の爵位
先代
寺内正毅
伯爵
寺内(正毅)家第2代
1919年 - 1946年
次代
華族制度廃止



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