藤原国衡
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藤原 国衡(ふじわら の くにひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡の長男。母は側室で信夫佐藤氏の娘とも蝦夷の娘であったとも言われる。父の正室(義母)を娶り、泰衡とは義理の父子関係となる。しかし、庶子という身分からか、一族内での発言権には乏しかったようで、高衡を除いた四人の弟をはじめとする一族の相克を傍観するしかなかった。奥州合戦では阿津賀志山の戦いに総大将として参戦するも、戦死した。
- ^ すぐ下の弟(異母弟)である泰衡が久寿2年(1155年)生まれであるとされているため、それ以前の誕生と推測される。
- ^ 柳之御所遺跡で出土した人々給絹日記には、「信寿太郎殿」と記されている。日記の内容は武家の正装であり、平泉館で大事な儀式があったとき着なければならない赤根染を基調とした絹の狩が誰に支給されたかが記されている。国衡の欄には「赤根染青綾」、「カサネタリ」、と記されている。
- ^ 『平泉志』には『又玉海の記に、秀衡の娘を頼朝に娶はすべく互に約諾を成せりとあれど、秀衡系圖には娘なし、何等の誤りにや、否や、後の批判を待つ』とあり、訳せば、源頼朝と秀衡の娘を娶わせる約束が成されたとあるが、系図に娘が記されていないとなる。
- ^ 父秀衡は死去する直前、異母兄弟である国衡と泰衡の融和を図る目的で、自分の正室・藤原基成の娘(泰衡の実母)を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・源義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つことになる藤原基成の娘を娶らせることで国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。それほど兄弟間の関係は険悪で秀衡が苦慮していたことが窺える。[要出典]
- ^ 義経誅殺に反対したため誅殺されたとも推測されている。また、このような状況から、通衡も忠衡同様、義経保護を主張していたと考えることもできる。
- ^ 『吾妻鏡』吉川家本では享年25、北条本では享年35とされているが、6歳で長男・時衡が生まれたとは考えられないので、享年35説が有力である。ただし、1950年(昭和25年)の開棺結果から、享年25説は完全には否定できない。また、史料によっては享年20とするものもあるが、同年に享年23で亡くなった異母弟・忠衡との兄弟順が崩れるため信憑性は低く、否定できるとされる。
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