両軍の兵力と編成、対峙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/15 14:20 UTC 版)
「阿津賀志山の戦い」の記事における「両軍の兵力と編成、対峙」の解説
軍勢は3分割し、頼朝の大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面へ、千葉常胤・八田知家の東海道軍は常陸国や下総国の武士団とともに岩城岩崎方面へ、比企能員・宇佐美実政の北陸道軍は越後国から日本海沿いを出羽国方面へそれぞれ進攻した。『吾妻鏡』7月19日条によれば、大手軍は騎馬武者では先陣の畠山重忠はじめ一千騎を従えたとされ、歩兵や輸送要員を加え、さらに道中では各地の豪族を加え、推定される総勢は25,000以上の兵力だったと思われる。 一方奥州軍は、防衛線を伊達郡と刈田郡(宮城県白石市)の境として、厚樫山山麓から阿武隈川に至る長大な堀に阿武隈川の水を引いて、総延長3kmに及ぶ三重の防塁で大要塞を築く(阿津賀志山防塁)。総大将は泰衡の異母兄藤原国衡で、金剛別当秀綱以下二万の兵を配備して迎撃態勢を取った。泰衡は陸奥国国分原鞭楯(現仙台市宮城野区・榴岡公園辺りと推定される)に本陣を置き、名取川、広瀬川などの川底に縄を巡らせ、要所に兵を配置するほか、田川行文・秋田致文を出羽国に派遣して出羽方面の指揮を統括させ、鎌倉軍の来襲に備えた。
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