両軍の兵力数と損害数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 17:40 UTC 版)
通説では織田・徳川連合軍38,000(うち鳶ヶ巣山強襲部隊4,000)、武田軍15,000(うち鳶ヶ巣山に残した部隊3,000)となっているが諸説ある。 高柳光寿は『長篠之戦』で、織田12,000-13,000、徳川4,000-5,000とし、武田8,000-10,000でその内、設楽原へ布陣した兵数が6,000-7,000という数字を唱えている。連合軍の兵力はおよそ武田軍の2.5-3倍程度であり、これは通説とほぼ等しい。この数字が支持される理由に、設楽原の地形の峡さが挙げられることが多い。 武田氏の動員兵力は、『甲陽軍鑑』にある騎数9,121から想定し最小で36,000最大で52,000の動員が可能であったと考えられている。このうち一部の兵力は、織田以外の勢力への備えとして領国内に残留させていたと考えられている。元亀3年(1572年)の西上作戦では30,000の兵力を動員したと言われるように、通説通りと見てもこの戦いにおいては最大動員兵力ではない。この理由として、対上杉に戦力を割かれたため(この時は対上杉に10,000の抑え部隊が配置されていたと言われる)、国人の経済状況の悪化による軍役拒否、長篠城攻城及び徳川単独との決戦のため(15,000と見ても可能性がある)等の理由がよく言われる。特に最後に関しては、織田との合戦を考慮していなかったという意味になるが、信長が出陣した時点で既に退却か長篠城強襲かを決定する必要があるため(信長の岐阜出陣は5月13日、三河牛久保から設楽原へ向かったのが5月17日)その可能性は低いことになる。 被害については信長公記の10,000人以上が通説になっているが、同時代に成立した『多聞院日記』には、伝聞記事ではあるものの、この戦いについて「甲斐国衆千余人討死」と書かれている。そのため、武田軍の犠牲者は1,000人程度だったのではないかという説がある(ただし「国衆」を国人級の武士だと解すると、全戦死者はより増える可能性はある)。また、『兼見卿記』には「数千騎討死」とある。
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