両軍の声明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:26 UTC 版)
爆撃翌日の4月27日にはバスク自治政府レンダカリのホセ・アントニオ・アギーレがゲルニカ爆撃を非難する声明を発表したが、サラマンカに拠点を置くフランコ軍の司令部は同日中に、「バスク人が自らゲルニカにガソリンをまき、自ら火を付けて焼いた。4月26日にはビスカヤのどこにも飛行していない」とラジオで伝え、5月5日には新聞でも同様の声明を発表した。1936年9月にバスク軍がイルンを放棄した際には、実際にバスク軍内のアナーキストが町の一部を焼き払っており、フランコ軍はイルンの事例も自作自演説の根拠に挙げた。ゲルニカは3日後の4月29日にフランコ軍に占拠されたため、バスク自治政府が被害状況を正確に調査する時間的余裕がなく、フランコ軍は死傷者数の調査そのものを行わなかった。4月30日にはフランコ本人が初めてゲルニカの事件に言及し、バスク自治政府の声明が嘘であるとして非難した。なお、ドイツ空軍によるゲルニカ空爆がフランコの意思であるとする書類は発見されておらず、また、当日のゲルニカの人口や死傷者数については様々な推測がなされている(後述)。バスク自治政府はその後もフランコ軍を非難し続けてローマ・カトリック世界の西ヨーロッパ諸国を味方に付けたが、これは戦争報道の宣伝戦の典型例に挙げられている。5月15日、ヒトラーは外交官のヨアヒム・フォン・リッベントロップに、「いかなることになろうとも、ゲルニカに対する国際的調査は阻止しなくてはならない」と厳命した。5月29日、国際連盟諮問委員会はすべての非スペイン人軍隊に撤退を要求し、スペインの非武装都市に対する空襲を有罪とする決議を可決した。
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