父の死と遺言、義母との結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:41 UTC 版)
「藤原国衡」の記事における「父の死と遺言、義母との結婚」の解説
秀衡は家督相続にあたって兄弟間の融和を図るため、自分の正室を国衡に娶らせた。国衡にとっては義母であるが、後家は強い立場を持ち、兄弟の後見役である藤原基成が岳父となり、後継者から外された国衡の立場を強化するものであった。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つことになる藤原基成の娘を娶らせることで国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。この異母兄弟の関係性に付け込んで鎌倉の頼朝が庶子・国衡と接触して味方に引き込み、一族を分裂させるという危険性もあった。この奥州藤原氏に限らず、後継者になれなかった者に敵対者が接触して分裂を煽り、一族の弱体化を図るというのはよくある謀略であった。また、初代・清衡、2代・基衡も兄弟と争った経緯があった。秀衡がこの異腹兄弟同士の関係に苦慮していたことが窺える。このような処置を施さざるを得ないまでに兄弟間の関係は険悪であった。秀衡は自分亡き後、源義経を主君として推戴し、兄弟異心無きよう泰衡・国衡・義経に起請文を書かせ、三人一味となって源頼朝の攻撃に備えるよう遺言し、文治3年(1187年)10月29日没した。
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