父の死と継母、弟との確執
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「小林一茶」の記事における「父の死と継母、弟との確執」の解説
ところで安永6年(1777年)の春に一茶が故郷、柏原から江戸に奉公に出た後、一茶の父弥五兵衛ばかりではなく、継母のはつと腹違いの弟である仙六は懸命に働き、一家を盛り立てていた。実際、一茶が故郷を出た時分には3.71石であった持高が、約9~10石にまで増加し、柏原の中でも有力な農民となった。これは働き者であった継母のはつと、仙六の貢献が大きかったと見られている。寛政末期から享和にかけて持高はやや減少し、享和元年(1801年)には7.09石となっている。これは父弥五兵衛の病気により近隣でも名医を呼ぶなどしたためであると考えられるが、それでも一茶が故郷を離れた時よりも大幅に財産を増やしていた。このような経過から、継母のはつと腹違いの弟、仙六は小林家の財産は自らが増やしたものとの自負を持っていた。 一茶は安永6年に江戸へ奉公に出た後も、柏原の宗門改め時に作成される宗門帳にその名を残し続けていた。これは一茶が江戸奉公に、そして俳諧修行の旅に出るなどして、故郷柏原に居住の実態が無いにも関わらず、住民の一員としての地位を維持していたことを意味している。 一茶は享和元年(1801年)3月頃、一茶は故郷柏原に帰省した。帰省の経緯ははっきりとしていないが、父、弥五兵衛の病気の知らせを受けてのことであったとの説がある。ただし一茶が父の死去の経緯について書いた「父の終焉日記」では、一茶が帰省中の4月23日(1801年6月4日)、父が農作業中に突然倒れたとしている。享和元年の帰郷は父の病気との関係は無く、本来の目的は帰郷しての後の生活維持のために一茶を師匠とした俳諧結社、いわゆる一茶社中の結成を開始するためであったとの説もある。 父、弥五兵衛は高熱を発し、食欲も無かった。倒れた翌日もしきりと体のだるさを訴え、体調が回復する様子もない。近医に診てもらったところ病名は陰性の傷寒で、回復の見込みは極めて少ないとの診断であった。4月29日(1801年6月10日)、死期を悟った弥五兵衛は一茶と仙六を枕元に呼び、財産を一茶と仙六とで二分するよう言い渡した。すると仙六は病床の父と言い争いになってしまった。仙六にとってみれば、一茶不在の間に母、はつと共に努力して一家の財産を増やしてきたとの自負があった。父からその家産を二分せよと言われたところで簡単に納得できるものではなかった。これが文化11年(1814年)まで約13年間続く、継母と弟との遺産相続の争いの発端であった。 前述のように一茶は父の死去とそれに伴う遺産を巡る継母、弟との骨肉の争いを「父の終焉日記」にまとめている。親族間の遺産相続における争いごとは比較的ありふれた出来事ではあるが、江戸期以前の日本では文学の題材として取り上げられることが無かった題材であった。赤裸々に描かれた遺産を巡る親族間の骨肉の争いは読者にやるせない思いを抱かせるものである一面、極めて人間的なテーマを私小説風にまとめ上げており、「父の終焉日記」は日本の自然主義文学の草分けであるとの評価がなされるようになった。もちろん「父の終焉日記」は一茶の視点によって書かれたものであり、内容的にも創作が見られ、遺産相続問題において、一茶が善人、継母と弟が欲にまみれた悪人であるように描かれた記述は慎重に読まねばならない。 現実問題として父が倒れた時期は農繁期に当たっていて、継母と弟は日々の農作業に追われ、勢い、父の看病は一茶に任される形となった。これは継母、弟にとって終始父の看病に当たっている一茶が重態の父を篭絡するのではないかとの疑心暗鬼を深めることにも繋がった。しかし遺産を兄弟で二分せよと意思を示した父、弥五兵衛にはしっかりとした考えがあった。父としてはわずか15歳で一茶を江戸奉公に出し、これまで苦労をさせてしまったとの負い目があった。そして北信濃の遺産分割の習慣は基本的に均分相続であり、事実、一茶の一族、小林家は祖父の代も財産を均分に分割して相続している。父の遺産相続における判断は、北信濃で一般的であった遺産相続方法、そしてこれまで小林家で行われてきた相続方法から見ても妥当なものとも言えた。 父、弥五兵衛は一茶に対してかねがね妻を娶って柏原に落ち着くように勧めていた。一茶自身も父に対して「病気が治ったら、元の弥太郎に戻って農業に精を出し、父上を安心させたい」と語り、帰郷の意思があることを表明した。そして家を離れ、俳諧師として浮草のような生活を続けていることについて反省を述べている。農民の子として生まれながら、汗して田畑を耕すことなく生きていくことに対する罪悪感は、一茶の脳裏を一生離れることが無かった。このような一茶の姿を見た父は、一茶と弟、仙六とで財産を均分するよう指示した遺言状をしたため、一茶に手渡したと考えられている。 父の病状は次第に重くなり、5月20日(1801年6月30日)には危篤状態となった。危篤状態の父の姿を一茶は 寝すがたの蠅追ふもけふが限りかな と、父の寝ている姿を前に、蠅を追うのも今日限りだろうと詠んだ。 父は5月21日(1801年7月1日)の明け方に亡くなった。父の葬儀を終え、初七日に一茶は継母、弟に対して遺産問題について談判した。一茶の手には父、直筆の遺言状があった。小林家の本家である弥市の仲介もあって、口約束ではあったが遺産を均分して相続することについて継母と弟に承諾させることに成功した。しかし一茶はこの時、具体的な遺産の分割についてまでは踏み込まなかった。俳諧師として江戸で成功したいとの野心にあふれていた一茶は、遺産の分割を行って土地持ちとなり、故郷柏原に落ち着く気持ちにはまだなれなかった。 父ありてあけぼの見たし青田原 と、父の終焉日記を締めくくった一茶は、江戸へと戻っていった。 享和元年の父の死によって一茶は最も信頼できる身内を失った。父の死後継母、弟の仙六と、足かけ13年にも及ぶ骨肉の遺産争いを続けることになる。また父の死という精神面、生活面での大きな変化が一種の引き金となって、一茶は享和年間以降自らの個性を伸ばしていき、「一茶調」と呼ばれるようになる独自の俳風を歩みだすようになった。
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