父の死と継母、弟との確執とは? わかりやすく解説

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父の死と継母、弟との確執

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)

小林一茶」の記事における「父の死と継母、弟との確執」の解説

ところで安永6年1777年)の春に一茶故郷柏原から江戸奉公出た後、一茶の父弥五兵衛ばかりではなく継母のはつと腹違いの弟である仙六は懸命に働き一家盛り立てていた。実際一茶故郷出た時分には3.71石であった持高が、約9~10石にまで増加し柏原中でも有力な農民となった。これは働き者であった継母のはつと、仙六の貢献大きかった見られている。寛政末期から享和にかけて持高はやや減少し享和元年1801年)には7.09石となっている。これは父弥五兵衛病気により近隣でも名医を呼ぶなどしたためであると考えられるが、それでも一茶故郷離れた時よりも大幅に財産増やしていた。このような経過から、継母のはつと腹違いの弟、仙六は小林家財産は自らが増やしたものとの自負持っていた。 一茶安永6年江戸へ奉公出た後も、柏原宗門改め時に作成される宗門帳にその名を残し続けていた。これは一茶江戸奉公に、そして俳諧修行の旅に出るなどして、故郷柏原居住実態が無いにも関わらず住民一員としての地位維持していたことを意味している。 一茶享和元年1801年3月頃、一茶故郷柏原帰省した帰省経緯ははっきりとしていないが、父、弥五兵衛病気知らせ受けてのことであったとの説がある。ただし一茶父の死去の経緯について書いた父の終焉日記」では、一茶帰省中の4月23日1801年6月4日)、父が農作業中に突然倒れたとしている。享和元年帰郷は父の病気との関係は無く本来の目的帰郷しての後の生活維持のために一茶師匠とした俳諧結社いわゆる一茶社中の結成開始するためであったとの説もある。 父、弥五兵衛高熱発し食欲無かった倒れた翌日しきりと体のだるさを訴え体調回復する様子もない。近医に診てもらったところ病名陰性傷寒で、回復見込み極めて少ないとの診断であった4月29日1801年6月10日)、死期悟った弥五兵衛一茶と仙六を枕元呼び財産一茶と仙六とで二分するよう言渡した。すると仙六は病床の父と言い争いになってしまった。仙六にとってみれば、一茶不在の間に母、はつと共に努力して一家財産増やしてきたとの自負があった。父からその家産二分せよと言われたところで簡単に納得できるものではなかった。これが文化11年1814年)まで約13年間続く、継母と弟との遺産相続争い発端であった前述のように一茶父の死去とそれに伴う遺産を巡る継母、弟との骨肉の争いを「父の終焉日記」にまとめている。親族間の遺産相続における争いごと比較ありふれた出来事ではあるが、江戸期以前日本では文学の題材として取り上げられることが無かった題材であった赤裸々描かれ遺産を巡る親族間の骨肉の争い読者やるせない思い抱かせるのである一面極めて人間的なテーマ私小説風にまとめ上げており、「父の終焉日記」は日本自然主義文学草分けであるとの評価なされるようになった。もちろん「父の終焉日記」は一茶視点によって書かれたものであり、内容的に創作見られ遺産相続問題において、一茶善人継母と弟が欲にまみれた悪人あるよう描かれ記述慎重に読まねばならない現実問題として父が倒れた時期農繁期当たっていて、継母と弟は日々農作業追われ勢い、父の看病一茶任されるとなった。これは継母、弟にとって終始父の看病当たっている一茶重態の父を篭絡するではないかとの疑心暗鬼深めることにも繋がった。しかし遺産兄弟二分せよと意思示した父、弥五兵衛にはしっかりとした考えがあった。父としてはわずか15歳一茶江戸奉公出しこれまで苦労をさせてしまったとの負い目があった。そして北信濃遺産分割習慣基本的に均分相続であり、事実一茶一族小林家祖父の代も財産均分分割して相続している。父の遺産相続における判断は、北信濃一般的であった遺産相続方法、そしてこれまで小林家行われてきた相続方法から見ても妥当なものとも言えた。 父、弥五兵衛一茶に対してかねがね妻を娶って柏原落ち着くように勧めていた。一茶自身も父に対して病気治ったら、元の弥太郎戻って農業精を出し父上を安心させたい」と語り帰郷意思があることを表明した。そして家を離れ俳諧師として浮草のような生活を続けていることについて反省述べている。農民の子として生まれながら汗して田畑を耕すことなく生きていくことに対す罪悪感は、一茶脳裏一生離れることが無かったこのような一茶の姿を見た父は、一茶と弟、仙六とで財産均分するよう指示した遺言状したため一茶手渡した考えられている。 父の病状次第重くなり、5月20日1801年6月30日)には危篤態となった。危篤状態の父の姿を一茶寝すがたの蠅追ふもけふが限りかな と、父の寝ている姿を前にを追うのも今日限りだろうと詠んだ。 父は5月21日1801年7月1日)の明け方亡くなった。父の葬儀終え初七日一茶継母、弟に対して遺産問題について談判した一茶の手には父、直筆遺言状があった。小林家本家である弥市仲介もあって、口約束ではあったが遺産均分して相続することについて継母と弟に承諾させることに成功した。しかし一茶はこの時、具体的な遺産分割についてまでは踏み込まなかった。俳諧師として江戸で成功したいとの野心あふれていた一茶は、遺産分割行って土地持ちとなり、故郷柏原落ち着く気持ちにはまだなれなかった。 父ありてあけぼの見た青田原 と、父の終焉日記締めくくった一茶は、江戸へ戻っていった。 享和元年父の死によって一茶は最も信頼できる身内失った父の死後継母、弟の仙六と、足かけ13年にも及ぶ骨肉遺産争い続けることになる。また父の死という精神面生活面での大きな変化一種引き金となって一茶享和年間以降自らの個性伸ばしていき、「一茶調」と呼ばれるうになる独自の俳風歩みだすようになった

※この「父の死と継母、弟との確執」の解説は、「小林一茶」の解説の一部です。
「父の死と継母、弟との確執」を含む「小林一茶」の記事については、「小林一茶」の概要を参照ください。

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