弟達の相克と国衡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:41 UTC 版)
しかしその後、文治4年(1188年)2月と10月に頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡と基成に義経追討を要請する。『尊卑分脈』の記述によると、泰衡がこの年の12月に自分の祖母(秀衡の母)を殺害したとも取れる部分がある。真偽は不明だが、親族間の激しい相克があったと考えられている。翌文治5年(1189年)2月15日、泰衡は末弟(六弟)の頼衡を殺害している(『尊卑分脈』)。そして、閏4月30日に頼朝の圧力に屈して義経を襲撃し自害に追い込み、更に義経派であった異母弟(三弟)・忠衡も殺害した(『尊卑分脈』では五弟で忠衡の同母弟とされる通衡も共に討っている)。忠衡は父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)ため、討たれたと考えられている。なお、理由は不明であるが、四弟・高衡は生き残っている。国衡は妾腹の生まれという負い目からか、この弟達の不和反目とその一部始終を傍観するしかなかった。
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