新庄藩内での施粥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
宝暦5年12月、方々で餓死者が出たという風評が広まったころ、町方で粥雑炊が売り出された。1椀4文だったが、たちまち売り切れた。このころには家々の門口に物乞いをする者が日を追うごとに増えていった。雪が降り始める時節には餓死する者が多くなり、領主からの御救扶持1日1合や5勺ではとても足りないので在々の百姓・水呑・名子などは非人となり、庄屋名判の腰札を下げ、城下町の家中・町方を勧進して歩いた。翌6年3月には、城下の非人が2500人にまで増加したことから、藩は「非人小屋」を建てたが、非人は増え続け、毎日5人、10人と死んで大穴に埋め、「目もあてられぬ次第」となった。 宝暦6年正月には新庄城下の酒屋17軒が施粥をした。粥は白米1升に水6升の割合で炊いたものを、2合入りの柄杓で一人前2杯ずつ配られた。初日は65人、2日目が85人だったのが、2月8日には925人、同月10日に1073人が集まった。酒屋たちの施粥は2月末まで行われたが、藩でも4月からお救い粥の施しが始まった。
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