地方自治体の権力関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:27 UTC 版)
「中華人民共和国大飢饉」の記事における「地方自治体の権力関係」の解説
地方自治体は、共産党政府の上層部よりも飢饉に直接影響を及ぼした。大躍進政策が進むにつれ、多くの地方政府指導者が毛や党上層の指導者と連携し始めた。1959年には現状を重く受けとめて軌道修正を提言した彭徳懐が毛の逆鱗に触れて廬山会議で追放され、毛はますます意固地となり、保身に走った党員らによる毛への個人崇拝が始まった。選択を迫られた地元権力者たちは、地域社会にとって最善のことをすることよりも政治的な名声を守ることを選び、反対者たちを恣意的に"右翼的保守派"と呼んで糾弾するようになった。農民に向けられた陰謀論の環境下では、家族が食べる分以外の余剰穀物を備蓄したり、大躍進政策は実行されるべきではないという信念を支持したり、あるいは単に十分に働かないことは、すべて"保守的右翼主義"とみなされた。農民は集団化と州の穀物購入について公然と話すことができなくなった。恐怖と逆恨みの文化が地元と当局の双方に渦巻く中で、飢饉に対して発言し行動することは、まるで不可能な任務となっていた。 飢饉における地方政府の影響は、安徽省と江西省で対比することができる。 安徽省は、毛と関係のある「独裁者」であった曾希聖(中国語版)が率いる、過激な親毛政権であった。曽は大躍進政策を固く信じ、地元との結びつきを維持するよりも、高官との関係を築こうとした。曽は同僚に相談せずに農業プロジェクトを提案したため、安徽省の農業は大失敗した。党書記兼州副知事である張凱帆は、安徽省で飢饉が発生したという噂を聞き、曽の政策の多くに反対した。曽は張を疑い、毛に讒言した。その結果、毛は「彭徳懐反党軍閥」と張にレッテルを貼り、張は地元の党から粛清された。その後も少しでも否定的な意見を述べた者を次々と破滅へ追いやった曽は、飢饉が切迫した状況になってもなお、自らの偽証が発覚することを恐れこれを報告をしなかった。このため、彼は「安徽省にほとんど一人で損害を与えた、目に余る政治的急進主義者」と評された。 江西省では安徽省とほぼ逆の事象が起きた。江西省の指導者たちは公然と大躍進計画のいくつかに反対し、ひそかに自分たちを中央から遮断し、毛沢東主義経済に対して消極的な態度をとっているようにさえ見えた。指導者たちは相互に協力するとともに、彼らは地元の人々と一体で働いた。大躍進が完全に実行されない環境を作ることで、江西省政府は「被害を最小限に抑えるために最善を尽くした」。これらの調査結果は、飢饉の被害の多くは、省の指導者と彼らの地域に対する責任感によって左右されることを示している。
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