飢餓作戦と事件の終息
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 15:02 UTC 版)
「セララン兵営事件」の記事における「飢餓作戦と事件の終息」の解説
処刑によって却って捕虜たちの署名拒否の決意は強まり、食糧は更に減らされたが、その後3日間、セララン兵営での生活を続けた。 3日目の夜に、日本軍は、病院にいる感染症の患者ら5千名をセララン兵営に送ると通告してきた。捕虜たちは緊急集会を開き、当時ジフテリアが流行しており、既に便所は糞便で溢れて赤痢などの感染症患者が増加し、何人かの死者が出て兵営の狭い敷地内に埋められるなどしていたことから、ホウムズ大佐が全員を代理して「捕虜宣言」に署名することにした。 署名の翌日、捕虜たちが「セララン事件」あるいは「チャンギーの黒い穴」と呼んでいた事件は終息した。
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