飢餓の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:57 UTC 版)
「レニングラード包囲戦」の記事における「飢餓の発生」の解説
連絡線の遮断によってレニングラードへの補給はほぼ途絶した。9月2日、市民への食糧の配給が削減され、肉体労働者は1日にパン600g、労働者は400g、その他の市民と子供は300gと定められた。9月8日の空襲ではバターエフ倉庫に貯蔵してあった大量の穀類や砂糖が焼失した。9月12日には、食料の残量は以下の通りと試算された。 穀類・小麦粉 35日分 えん麦・粉物 30日分 肉類・家畜 33日分 油脂 45日分 砂糖・菓子類 60日分 同日、配給の再度の削減が実施され、肉体労働者は1日にパン500g、労働者と子供は300g、その他の市民は250gと定められた。陸軍とバルチック艦隊は備蓄を有していたが十分ではなかった。ラドガ湖に配備されていた河川艦隊は装備も十分ではなく、しばしばドイツ軍の空襲を受け、9月には穀物輸送船が撃沈された。輸送船は後に引き上げられ、濡れた穀物もパンを焼くのに使われた。小麦粉を使い果たした後は、セルロースや綿の実の絞りかすが食用に供された。馬の飼料用のえん麦も食用に回された。肉類も底をつき、内臓や皮革が料理された。市内のあらゆる空き地には野菜が植えられた。市内に残った赤軍の状況も深刻だった。モスクワ防衛に呼ばれたジューコフは(10月7日にモスクワ到着)、フェジュニンスキー少将を後任とした。しかしフェジュニンスキーは後任を辞退し、ホージン中将を推薦した。将官達は封鎖されたレニングラードの指揮をとることに乗り気ではなかった。ジダーノフはヴォロノフ砲兵大将に司令官就任を要請したが、ヴォロノフは国防人民委員代理の職務を理由に辞退した。やむを得ずジダーノフは、ホージン中将に話をもっていった。ホージンも第54軍の指揮を理由に、辞退したが、スタフカはホージンを正式に後任とした。ネフスキー橋頭保を守るネヴァ作戦集団は第54軍との合流を命じられたが、支援を欠いた渡河作戦はドイツ軍砲兵隊の恰好の餌食となり、一方的に殺戮された。その後も封鎖の打破を試みる、ネヴァ河での攻勢はことごとく失敗に終わり、死体の山が積み上げられた。相次ぐ敗戦と食料事情の悪化は規律を再び低下させ、市内では兵士の逃亡や盗難が相次いだ。ジダーノフもホージンもなにも有効な手をうてなかった。軍人的資質に欠けるジダーノフはジューコフの始めた欠陥のある戦術を継続し、ネフスキー橋頭保から封鎖を突破しようと兵力を送るが大半が死傷し、10月に橋頭保に渡った看護師エレーナ・スヴェトコーワが手当てし、更に適切な治療のためにネヴァ川の向こう岸に戻そうとした重症者の内、幸運にも戻れた少数者の一人にウラジーミル・プーチン(第86歩兵師団第330連隊所属)未来のロシア大統領の父親がいた。。9月末には石油と石炭も尽きた。唯一の燃料は倒木であった。10月8日には市の北方にある森林での木材の伐採が計画されたが、機材も作業施設もなく、10月24日までに木材伐採計画の1%が実施できたのみであった。電力供給も不足し、電力の使用は軍の司令部や地域委員会、防空拠点などを除き厳禁とされた。大部分の工場が操業を停止し、11月には全ての公共交通機関が運行を停止した。1942年の春には一部の路面電車が運行を再開したが、トロリーバスとバスは終戦まで再開しなかった。 冬が近づく頃、飢餓による死が襲ってきた。植物学者のニコライ・ヴァヴィロフの研究スタッフの1人は、食用にすることもできた20万種の植物種子コレクションを守ろうとして餓死した。ターニャ・サヴィチェワという当時12歳の少女は、12月から翌年5月にかけてレニングラードにいた肉親全員が次々と死んでいったことを書き残している(ターニャの日記)。レニングラードの街角は死体で溢れた。やがて食料が切れた市内には飢餓地獄が訪れ、死体から人肉を食らう凄惨な状況が常態化し、人肉を含む食品を売る店まで現れた。
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