ターニャの日記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 20:03 UTC 版)
「ターニャ・サヴィチェワ」の記事における「ターニャの日記」の解説
ニーナがいなくなってから数日後、母のマリーヤはターニャに姉の物だった小さな手帳を与えた。後にそれは『ターニャの日記』として知られるようになる。ターニャは厚手のノートに彼女の人生で重要なことを全て記録した、ちゃんとした日記を付けていたが、冬にストーブにくべる物がなくなってそのノートを燃やしてしまい、姉の手帳をその代わりにしたのである。 最初の記録は12月28日に姉のジェーニャの死亡から始まっている。 「 1941年12月28日の午前12時、ジェーニャが死んだ。(Женя умерла 28 дек в 12.00 час утра 1941 г.) 」 ジェーニャは、毎日まだ暗いうちに起きては7キロを徒歩で往復し、1日2交代の工場勤務ばかりか就業後の献血もした。もともと体の弱かった彼女はそんな生活を続けられず、工場で死亡したのである。それからの日々、手帳には肉親が死んだという事実とその日時だけが淡々と綴られていく。 「 1942年1月25日の午後3時、おばあちゃん(エフドキヤ・グリゴリェーヴナ)が死んだ。(Бабушка умерла 25 янв. 3 ч. дня 1942 г.)1942年3月17日の午前5時、リョーカが死んだ。(Лёка умер 17 марта в 5 часутра в 1942 г.)1942年4月13日の深夜2時、ヴァーシャおじさんが死んだ。(Дядя Вася умер в 13 апр 2 ч ночь 1942 г.)1942年5月10日の午後4時、リョーシャおじさん(Дядя Леша 10 мая в 4 ч дня 1942 г.)1942年5月13日の午前7時半 ── ママ(Мама в 13 мая в 7.30 час утра 1942 г.) 」 『日記』は次の言葉で終わっている。 「 サヴィチェフ家は死んだ(Савичевы умерли)みんな死んだ(Умерли все)残ったのはターニャだけ(Осталась одна Таня) 」
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