ナチスによる弾圧
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「ロスチャイルド家」の記事における「ナチスによる弾圧」の解説
19世紀に栄華を誇ったロスチャイルド家も20世紀には衰退の一途をたどり、実際の財力より名前の威光ばかりが先行するイメージの存在と化していた。しかし「国際ユダヤ資本」を陰謀の元凶とするユダヤ陰謀論に影響されたナチス・ドイツにとってはそのイメージは反ユダヤ主義プロパガンダの格好の材料であり、ロスチャイルド家は陰謀の黒幕扱いにされた。『ワーテルローの勝者 ロスチャイルド家(Rothschilds Aktien auf Waterloo)』(1936年)や『ロスチャイルド家』(1940年)といったロスチャイルド家を「世界支配を狙う陰謀を企てる者」として描く反ユダヤ主義映画がドイツで公開された。 ドイツ国内のロスチャイルド家に由来する記念碑や名称もナチス政権誕生とともに取り払われていった。ロスチャイルド並木通りはカロリング王朝並木通りに変えられた。ドイツ国内にあったロスチャイルド家所有の財団法人や慈善施設も経済や銀行業のアーリア化により財産放棄か二束三文で買い取られていった。フランクフルト家の最後の当主ヴィルヘルム(ドイツ語版)の娘婿だったマクシミリアン・フォン・ゴールドシュミット=ロートシルト(ドイツ語版)の財産も政府に没収された。 しかし、ナチスの目標であったヴィートコヴィツェ製鉄所は守られた。この製鉄所は1843年、ザロモンが北部鉄道などの事業へ供するため、オストラヴァのヴィートコヴィツェに独占所有した資源である。この鉱山は石炭も産んだ。並み居る資源連合国を前に、ドイツの兵器産業はザロモンの山を切望した。そこで歴史が動いた。ネイサン創始のアライアンス保険が1936年に法的な鉱山所有者となったのである。ここまではロスチャイルド・アーカイブでも明らかにされている。実は前年から株式の名義をスイスなどに変えてあったが、おかげでヒトラーに察知されなかった。占領にこぎつけても時すでに遅く、電撃作戦をねらうドイツとしては国際私法に挑戦することができなかった。後日談としてヴィートコヴィツェは戦後に国有化された。英国は1948年12月23日ユーゴスラビアに、翌年9月28日にはチェコスロバキアに賠償責任を認めさせた。1950年7月12日に海外賠償法The Foreign Compensation Act 1950 が成立し、これにより補償金を株主へ配る委員会The Foreign Compensation Commission が設立された。1951年、ロスチャイルドのアライアンス保険は委員会を交えて株主と協議した。そして1962年、アライアンス保険ヴィートコヴィツェ事業権利書の解約による株式保有者へ、最後の補償金が分配された。現在のヴィートコヴィツェは原子炉圧力容器・蒸気発生器などを製造している。 1938年にオーストリアがドイツに併合された際には、ウィーン家の者はほとんどがイギリスへ亡命していたが、当主であるルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵(ドイツ語版)のみがウィーンに残っており、併合とともにゲシュタポに連行された。戦前期にはまだ絶滅政策は行われておらず、財産没収と国外追放がナチスのユダヤ人政策だったので、ルイも全財産没収と外国へ出ていくことに同意するのを条件に釈放され、アメリカへ亡命した。第二次世界大戦後もウィーンには戻らず、子孫もなかったためウィーン家はこれをもって絶家した(戦後オーストリア政府はナチスが没収したルイの財産をルイに返還しているが、ルイはその全額を寄付しているので財産上も残らなかった)。 1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻でパリが陥落すると、パリ家の銀行や邸宅もナチスに接収された。またパリ家は美術品の収集で知られており、陥落直前に美術品の外国移送に励んだが、移送できなかったものは陥落後に押収された。パリ家の人々の多くはアメリカへ亡命し、ロチルド家御曹司ギーはアメリカからイギリスにわたってド・ゴールの自由フランス軍に入隊した。自由フランス軍の財政は少なからずロスチャイルド家によって支えられていた。 ロンドン家は直接の被害を免れたが、1940年から1941年のイギリス本土空襲時には子供たちはワドスドン城ヘ疎開した。ドイツやオーストリアから逃れてきていた孤児たちも預かり、この城に一緒に収容している。戦時中大陸にいて逃げ遅れ、ナチスの手にかかったロスチャイルド家の者が2人出た。フランス家のフィリップの妻エリザベート(英語版)とロンドン家の第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターの叔母にあたるアランカだった。前者はラーフェンスブリュック強制収容所、後者はブーヘンヴァルト強制収容所で落命している。 第二次世界大戦が終わった時、残ったロスチャイルド家はロンドン家とパリ家の二つだけとなった。大戦の影響でロスチャイルド家の衰退は更に進んだ。ロンドン家もパリ家も収入が大きく落ち、出費は増える一方で更に多くの豪邸を売り払うことを余儀なくされた。
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ナチスによる弾圧
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現代美術、特に19世紀半ば以降の芸術を理解せず毛嫌いしたナチスは、それらを「頽廃芸術」であると一方的にみなし、美術館などから作品を没収し芸術家に制作を禁じるなどして強力に弾圧した。ドイツ表現主義の作品もそのやり玉にあげられ、青騎士に属していた芸術家たちも例外ではなかった。 クレーは1931年、デュッセルドルフのプロイセン美術アカデミー絵画教室主任に招聘され、バウハウス教授を辞して赴任したが、33年にナチスが政権を取ると職を追われスイスのベルンにもどった。クレーはそこで市民権を申請するも、ナチスによって頽廃芸術家の烙印を押されていたがためにかなわなかった。33年3月にはナチスによってバウハウスが閉鎖され、当時そこで教授を務めていたカンディンスキーは職を失いパリに逃れた。頽廃芸術の糾弾は音楽にも波及し、頽廃音楽家とみなされたシェーンベルクは1933年には亡命を余儀なくされアメリカに移住し、かの地に帰化して自身の名前からウムラウトを消した。 1937年には、カンディンスキーの作品57点が没収された。フランツ・マルクも、本人は一次大戦中に亡くなっていたが作品は美術館から押収された。 没収された作品は隠匿され、国外に売却されたりナチス高官の手に収まったり、また一部は焼却処分されたりした。こうして四散した作品には現在も所在の分からないものもある。たとえば、マルクによる1913年制作の「青い馬の塔」(独:Turm der blauen Pferde)は、1937年にナチスによりベルリンのナショナルギャラリーから没収され、行方不明のままである。マルクの好んだ「青い馬」のモティーフに対してヒトラーは「青い馬などこの世にいるわけがない」という旨の言葉を残している。
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