ナチスによる大量生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 10:20 UTC 版)
1939年、リューネブルガーハイデのラウプカンマー森林地帯に位置し、ドイツ軍の実験場でもあるムンスター駐屯地に、タブン製造の先行プラントが設置された。続く1940年1月には暗号名ホッホヴェルク (Hochwerk) と名付けられた秘密プラントの建設が開始された。建設場所は現在のポーランドのブジェク・ドルニ (Brzeg Dolny) であり、シレジアのヴロツワフから約40 km離れたオーデル川の辺りであった。 プラントは大きく、2.4×0.8 kmに及んでいた。プラント内では全ての中間体と最終目的物であるタブンが合成され、製造はプラント内で完結できるようになっていた。プラントに必要な物資を作る軍事工場も機密扱いであり、シレジア北部のクラピッツ(Krappitz, 現在のクラポヴィツェ Krapowice)に物資が保管された。IG・ファルベンの子会社であるアノルガナ社 (Anorgana GmbH) により工場は運用され、また当時ドイツにあった他の全ての化学兵器工場も同社により運営された。 プラントの機密を厳しく保たねばならず、製造工程も困難を極めたため、本格的な生産を始めるまでには1940年1月から1942年6月までの期間を要した。タブンの前駆体の多くは腐食性があるため、石英や銀を用いていない反応容器は徐々に役に立たなくなった。またタブンはそれ自身が非常に強い毒性を持つため、製造の最終段階では二重にしたガラスの反応容器を用い、なおかつガラスとガラスの間に加圧した空気を循環させ、装置の破損を防いだ。 このプラントでは3,000人のドイツ国民が働いており、非常時に備えて全員分の防毒マスクとゴム/布/ゴムで重ねられた防護服が用意されていた。防護服は不意の破損を防ぐため、10回使用したらまだ異常がなくても廃棄することになっていた。しかし本格的なプラント始動が始まる前から数えると300件以上の事故が起きており、2年半の稼動で少なくとも10人以上が死亡した。いくつかの事件については『A Higher Form of Killing: The Secret History of Chemical and Biological Warfare』に記載してある。以下にその例を示す。 4人のパイプ整備工が誤って液体のタブンを頭からかぶってしまった。防護服を脱がせる間もなく4人は死亡した。 ある作業者が誤って、2リットルの液体タブンを防護服の首の部分から防護服内部に入れてしまった。彼は2分のうちに死亡した。 タブンの噴流が顔面に当たり、7人の作業者の防護マスクの内側にまで侵入した。蘇生措置が試みられたが、生き残ったのは2人であった。 プラントがソビエト連邦軍に差し押さえられるまでに、10,000トンから30,000トンのタブンが製造されたと考えられている。
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