妨害活動
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7月13日、「開催するなら施設を破壊する。人的攻撃も含む」などと書かれた脅迫文が会場に届いた。 7月14日、準備中の会場に「サリン」と書かれた液体入りの袋が届き、職員が避難した。 7月16日、会期中に刃物が入った郵便物と開催に抗議する内容の文書が届き、施設側が東警察署に届け出た。 7月16日、「一般閲覧者に紛れてサリンまきます」などの投稿がSNSに行われた。2022年3月2日、投稿で施設側を脅したとして、大阪府警察警備部が無職の男を威力業務妨害の疑いで書類送検した。
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妨害活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 06:01 UTC 版)
歴史的経緯より自衛隊への感情があまりよくない沖縄へ移駐するに当たって、公団住宅への入居拒否、成人式への参加拒否、住民登録拒否など公私・合法非合法問わずさまざまな妨害活動や抗議活動があった。1972年(昭和47年)10月6日には移駐第一陣、わずか100名の隊員しかいない那覇駐屯地を約8,000人のデモ隊が取り囲んだ。 一方で、初代第1混成群長で沖縄出身の桑江良逢は著書の中で下記の理由からこれらの抗議や妨害の根幹は単なる(活動家の身内に対する)パフォーマンスや自衛隊という存在に対する知識の無さによるものではなかったのではないかと感じたとしている。 移駐第一陣の抗議活動において自衛隊の通らない民間用出口でのみ抗議活動をしていた。(駐屯地に入ってしまえば余計に追い出しにくくなるのに) 駐屯地に抗議団が来たので面会に行くと抗議文を読み上げたらすぐ帰ろうとしてしまう。 新聞記者を同行したとき、抗議団の人数が多い時は同行していないときに比べて態度が強硬になる。 複数団体の抗議団が来た時、桑江が一人で面会するので抗議団にも一名代表を出すように促しても拒否される。 抗議割当表なるものが存在し、各団体に日時が割り当てられているがだんだん来なくなった。同級生には今度行く予定だがもう行ったことにしとくといわれた。 タクシーの運転手は当初駐屯地営門への運輸を拒否することは無かったが、営門内へ入ることを極度に嫌がった。これは1年程度で解消された。(復帰前の米軍基地のように駐屯地内が治外法権というイメージ) タクシー運転手同様、自衛隊側の説明にもかかわらず自治体の職員も調査や指導はできないと信じ込んでいたが数か月でイメージが刷新され正常に行えるようになった。なお、住民登録拒否の中にあっても義務教育、免許の更新などはおおむね問題なく実施できた。 デモのシュプレヒコールが当初『日本軍帰れ』だったのが1973年(昭和48年)ごろから『自衛隊帰れ』に変わった。
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