パレスチナとイスラエル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 22:30 UTC 版)
「アーネスト・ベヴィン」の記事における「パレスチナとイスラエル」の解説
イギリス委任統治領パレスチナが終焉してイスラエル国が創設された当時、ベヴィンは外務大臣だった。この区域における外交政策で、ベヴィンはイギリスが表明した目標(これには状況の平和的解決および意志にそぐわない人口移動の回避が含まれる)を達成することに失敗した。ベヴィンの中東情勢の扱いに関して、少なくとも1人の解説者デビッド・リーチは、ベヴィンが外交的な精巧さを欠いていたと指摘している。 「ベヴィンは不適切で不快な発言をすることで、悪い状況をさらに悪化させる傾向がある」とリーチは主張する。彼は紛れも無く物事をあけすけに話す人物で、そのいくつかの発言が配慮不足のため多くの人を攻撃していた。評論家は彼が反ユダヤ主義であると非難している。パレスチナへの移住を望んでいたホロコーストの生存者10万人のユダヤ人難民を直ちに認めるようトルーマン大統領がイギリスに圧力をかけてきたとき、1つの発言が激烈な怒りを生み出してしまった。ベヴィンはユダヤ人を認めるようアメリカの圧力がかかってくる原因として「パレスチナにユダヤ人10万人が収容されているためというのは、アメリカの特にニューヨークのアジテーションである。彼らはニューヨークに多すぎるユダヤ人を望まなかったのだ」と労働党の集会で語った。 彼はアメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官が語ったことを単に再表明していた 。戦後にユダヤ人移民の制限を撤廃することを拒んだため、ベヴィンはシオン主義者の怒りを貰ってしまった。歴史家のハワード・サッチャー(英語版)によると、彼の政敵リチャード・クロスマン(英語版)、議会の同僚の労働党議員で戦争後の欧州ユダヤ・パレスチナ問題に関するアングロアメリカ委員会(英語版)の親シオン主義派のメンバー、は委任統治領が終焉を迎える期間中のベヴィンの見解が「シオン賢者の議定書(反ユダヤ主義の偏見を煽るために書かれた偽書)におおむね合致している」と吹聴した。サッチャーの記述では、クロスマンは「ベヴィンの演説の要点は...ユダヤ人がイギリスと彼個人に対しての陰謀を成功裏に組織したことである」と公言していた 。ベヴィンの伝記作家アラン・ブロックは、ベヴィンが個人的な反ユダヤ主義によって動機づけられていたという意見を否定した。 イギリスの経済的脆弱さとアメリカの財政支援への依存は、彼に代替案を殆ど残さず、パレスチナ政策に対するアメリカの圧力に屈することとなった。1947年1月に再開されたロンドン6カ国会議(英語版)で、ユダヤ側の交渉者は隔壁を受け入れる準備のみできており、アラブの交渉者は単一国家(それは自動的にアラブが大多数となる)だけとした。どちら側もイギリス統治の下での限定的な自治は受け入れないとした。合意に達しない場合、この問題を国連に任せるとベヴィンは脅したが、いずれの代表者もこの脅迫に心揺らぐことが無かった。ユダヤ側の代表者はベヴィンがはったりを言っていると確信していたからであり、アラブ側は国際連合総会以前に自分たちの根拠が優勢であると確信していたからである。そのためベヴィンは「パレスチナ問題の熟慮解決を国際連合に要請する」と発表した。 1週間後、パレスチナでの存在感を維持するというイギリスの戦略的論理は、同年8月にインドから撤退する意図が発表された時に削除された。国連がパレスチナの将来を指示できるようになる決定は、1947年2月にパレスチナのイギリス委任統治が「機能不全」になったというアトリー政権の公式宣言によって正式なものとなった。その結果として生じたパレスチナ分割決議で、ベヴィンは「大多数の提案はアラブ人にとって明らかに不公平で、良心ある我々がどのようにそれを和解させればいいのか見えてこない」と発言した。 委任統治の残りの期間中、ユダヤ人とアラブ人コミュニティ間の戦いが激化した。 委任統治の終了とイギリスのパレスチナ最終撤退は、イスラエル独立宣言と1948年の第一次中東戦争によって明白なものとなり、5つのアラブ諸国がこのコミュニティ間の戦いに介入した。アラブ軍は、イギリスの士官によって軍隊が訓練され統率された最も実動力ある国家ヨルダンによって率いられた。この戦争はイスラエル(のパレスチナ獲得)をもって終結し、ユダヤ国家創設のため国連によって割り当てられた領土に加えて、アラブ国家創設のために国連によって割り当てられた委任統治領の大部分をも管轄に組み入れた。残りはヨルダンとエジプトの間で分けられた。数十万人もの圧倒的多数のアラブ市民が場所を追われた。 ベヴィンは、一般にシュテルンギャングとして知られている過激派のユダヤ人武装組織イルグンとレヒによって実行に移されたイギリス軍への攻撃に激怒した。キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件までハガナーは直接攻撃を少なくとどめ、その後は違法な移民活動に限定した 。機密解除されたイギリスの情報ファイルによると、イルグンとレヒは1946年にベヴィン自身を暗殺しようと企てていた。 ベヴィンは、イラクとの間でアングロイラク条約(英語版)(1948年1月15日署名)を交渉し、イラクの外相ムハマド・ファデル・アル=ジャマリ(英語版)によれば、パレスチナから撤退するイギリスの事業は全ての領土が速やかにアラブ占領になるような形で行われた。
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