イギリスの戦略
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「バトル・オブ・ブリテン」の記事における「イギリスの戦略」の解説
ヒュー・ダウディング キース・パーク イギリス空軍の戦闘機軍団司令官ヒュー・ダウディング大将は初代トレンチャード子爵ヒュー・トレンチャードの協力を受けつつ戦闘機の存在意義を問う声を撥ね退け、軍用機の近代化を後押しした。イギリス空軍は世界恐慌の影響を受け、大戦勃発の直前になって軍用機の量産が開始されるという状況にあったが、ダウディング大将は航空省と計画を練ってイギリス本土防空計画を策定した。この計画では、戦闘機スーパーマリン スピットファイアと戦闘機ホーカー ハリケーンからなる46個戦闘機飛行隊が必要と見積もられ、1939年中に部隊編成を達成することができた。しかし、旧式機のグロスター グラディエーターだけでなくフェアリー バトルやブリストル ブレニムといった軽爆撃機の転用で飛行隊が補完されていた上、チャーチル首相の戦闘機派遣命令を繰り返し受けたことによるフランス派遣軍での損失と北欧派遣軍の損失によって、計画以上の機数が必要であった。戦闘開始時には2000機以上を擁するドイツ軍に対してRAF[要曖昧さ回避]の保有戦力は戦闘機620機、その他84機に過ぎなかった。 チャーチル内閣が発足すると、初代ビーヴァーブルック男爵マックス・エイトケン が航空機生産大臣として迎えられた。マックス・エイトケンは倉庫で眠っていた修理用の部品を民間企業に押し出して新造機を生産させ、定数の確保に貢献した。空軍が整備のみに徹することが出来るように損傷した航空機の修理も民間企業に委託させる契約を結んだ。また、スーパーマリン スピットファイア、ホーカー ハリケーン、ブリストル ボーファイターなどの新型戦闘機、アブロ ランカスター、ハンドレページ ハリファックスといった新型爆撃機に搭載されるエンジンであるロールス・ロイス マーリンの供給が滞らないようアメリカの企業にライセンス生産を交渉し、フォード・モーター社には断られたがパッカード社が生産を承諾した。 航空省は無線電波を飛ばして航空機を発見・捜索するシステムの実用化をワトソン・ワットに依頼した。それから5年余りでレーダー監視網の整備が行われた。高空探知用のチェイン・ホーム・レーダー (CH) と低空探知用のチェイン・ホーム・ロウ・レーダー (CHL) は、発信塔から連続的な長波を発信して受信したものはブラウン管モニターに映し出された。それぞれのレーダーサイトで互いに死角を補完することができた。敵の航空部隊がイングランドの海岸線に到達する前から、その規模、方位、高度が航空統制官に伝えられ、迎撃部隊は最適な迎撃ができた。しかし、レーダー網は敵味方を区別できないため目視で確認する必要があり、人員を配置した監視所も設けられた。これらの防空監視システムは、まとめて「ダウディング・システム」と呼ばれる。
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イギリスの戦略
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1759年、エイブラハム平原の戦いの後、フランス軍は一旦モントリオールに撤退し、翌1760年の4月に、サントフォワの戦いでイギリスに勝利した。しかしイギリス軍は、城塞の裏側に陣取って包囲戦に出た。5月に、援軍であるイギリス海軍の艦隊がケベックに入って来たため、フランス軍は再びモントリオールに撤退した。イギリス軍は、次はそのモントリオールに集結し、フランスはこの年の9月8日に、降伏文書に署名した。かつてカナダを「何の値打ちもない何エーカーかの雪」と表現したヴォルテールはこう言った。「何エーカーかの雪が、母国にとっては非常に高価な値打ちのものになってしまった、その雪は除去されてしまったのだから」 しかし、イギリスは、ヌーベルフランスの住民に対してはかなり寛容だった。彼らは国外追放も虐待もされなかった。財産を持って、フランスに戻るのも可能だった。財産所有権も行使できた。イギリス系と同等に毛皮交易を行うこともでき、信教の自由もあった。 この場合むしろイギリスへの同化策よりは、フランス系住民の上に立つ領主と、ローマ・カトリック司教の特権を認め、ケベックをイギリス側の味方に引きこんだ上で、アメリカの13植民地ににらみをきかせる基地とするほうが、イギリスにとっては戦略上有利であった。 第八条 修道会ないしは宗教団体のみを除く、ケベック植民地内のすべてのカナダ人臣民は、その財産所有権及び占有、それらにかかるすべての慣習ないし慣行、またその他一切の市民的権利を、……保有しかつ享有する。……財産権及び市民的諸権利に関する争訟については、カナダにおける司法判決のための準則たるカナダの処方に従い訴訟が提起されるべきものとする。 — しかし、イギリスのこの目論見は失敗した。アメリカの13植民地にとって、イギリスの軍事力はフランスへの抑止力であった。1774年のケベック法で、イギリスはカトリック教徒に譲歩してケベック植民地を拡大し、これがニューイングランドの、西部への進展を阻むことになった。それ以前から、イギリス本国の強圧的な態度に怒りを募らせていた植民地住民は、フランスの脅威が無くなったこの時こそ、晴れて本国に戦いを挑むことができ、それがアメリカ独立への引き金となったのである。
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