航空機生産大臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 16:21 UTC 版)
![]() 航空機生産大臣 Minister of Aircraft Production |
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女王陛下の政府の紋章
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担当機関 | 航空機生産省 |
任命 | 国王 (首相の助言により) |
創設 | 1940年5月14日 |
初代 | ビーヴァーブルック卿 |
最後 | アーネスト・ブラウン |
廃止 | 1946年4月1日 |
航空機生産大臣(こうくうきせいさんだいじん、英語: Minister of Aircraft Production)は、イギリス政府により第二次世界大戦中に設立された内閣の役職である。航空機生産省のトップを担い、名前の通りイギリスの航空機、特にイギリス空軍やその中の艦隊航空隊などで使用される航空機の生産事業関連を担当した。
概要
ドイツ空軍とイギリス空軍とのバトル・オブ・ブリテンに伴い発生した航空機不足を補うため、時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルが1940年、自身が首相を務めた第1次チャーチル内閣とともに設立した[1]。初代航空機生産大臣であるビーヴァーブルック卿は就任後すぐに航空機生産を統括し、生産拡大・増加を成功させた。
廃止
航空機生産省は長続きしなかった。第二次世界大戦終結とともに役目が減っていき、1945年8月からは航空機生産大臣と軍需大臣を兼ねるようになった。
1946年4月1日に軍需省に吸収され、同時に航空機生産大臣も廃止となった。
歴代大臣
- 初代ビーヴァーブルック男爵 (1940年5月14日 - 1941年5月1日)
- ジョン・ムーア=ブラバゾン (1941年5月1日 - 1942年2月22日)
- ジョン・ジェスティン・ルーエリン (1942年2月22日 - 1942年11月22日)
- サー・スタッフォード・クリップス (1942年11月22日 - 1945年5月25日)
- アーネスト・ブラウン (1945年5月25日 - 1945年7月26日)
脚注
- ^ "Aircraft Production, Ministry of" in Chambers's Encyclopædia. London: George Newnes, 1961, Vol. 1, p. 183.
参考文献
- Ponting, Clive (1990). 1940: myth and reality. Hamish Hamilton Ltd. ISBN 978-0-241-12668-4
外部リンク
航空機生産大臣
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「スタッフォード・クリップス」の記事における「航空機生産大臣」の解説
1942年の後半、クリップスは庶民院院内総務を退いて航空機生産大臣に任命された。このポストは、クリップスが大いに成功に貢献した戦時内閣では、中枢から外れたものだった。1945年、クリップスは労働党に再入党する。 クリップスはドイツを貶めるためのイギリスによるブラック・プロパガンタ(en:Black propaganda)に対して不満を抱いていた。セフトン・デルマーがおこなっている内容を(リチャード・クロスマン(英語版)の干渉によって)知ると、外務大臣のアンソニー・イーデンに対して次のような手紙を書き送った。「もしこういったことが戦争に勝つために必要だというならば、私は負けてもよいと考えている」ロバート・ブルース・ロックハート(英語版)が、ドイツにいるサディストにこうした放送を伝える必要があると指摘したことで、デルマーはクリップスの非難を免れた。
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