航空機産業の再建とは? わかりやすく解説

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航空機産業の再建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 08:11 UTC 版)

上條勉」の記事における「航空機産業の再建」の解説

敗戦同時に航空機研究設計製造連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の命令禁止され工場設備機械はすべて賠償対象にされて、封鎖された。1945年昭和20年10月東京本社航空機部が廃止され名古屋航空機製作所では、占領軍による大小全ての風洞破壊命令で、航空機生産は完全に止まっていた。1946年昭和21年6月東京本社渉外連絡室が設けられ財閥解体への対策賠償指定解除民生機器生産再開等の戦後理に当たることになり、上條英会話力量買われ渉外連絡室に抜擢された。翌1947年昭和22年)の6月には、岡野保次郎社長渉外連絡室長事務取扱中川岩太郎が渉外次長上條渉外課長となり、GHQとの折衝行った折衝初期段階では賠償機械解除が主で、通商産業省役人解除申請出ている工場行き実情調査しGHQ申し出る形式とっていた。通産省役人GHQ要人とともに造船関係では三菱重工広島造船所下関造船所長崎造船所神戸造船所航空機関係では、熊本工場、京都の2工場名古屋工場視察した占領政策第二段階では、GHQは各工場自立ができるような仕事発注することを計画していた。上條三菱重工自立一日早く実現させよう努力しGHQ情報細大もらさず、ほとんど毎日社長室報告した1948年昭和23年)、米軍用車の修理問題持ち上がりGHQ兵器局長ニブロ少将一行三菱重工東京名古屋京都水島広島工場視察することになり、専用列車巡回し、駅からはジープ分乗して工場直行した視察後、三菱重工業東京機器製作所機器製作所米軍ジープ乗用車等の修理工場決定した戦時中戦車工場だった東京機器製作所では工場徹底した清掃後、米軍によって派遣され技術者によって工場レイアウトが行われ、修理ラインエンジンシャーシーとで区別して造られた。1949年昭和24年)に、大江工場では半金属、半木製民間バススクールバス泊り込み作業製造され東京渉外部から上條出張して米軍監督官へのアピールのため車の並べ方、整頓指導した結果上々及第した東京勤務中、1947年昭和22年9月長男生まれたが、1950年25年1月から総務部長付として、軍用車修理問題名古屋長期出張するようになり、3月に妻幸子病気亡くした東西冷戦激化する中で、6月朝鮮戦争勃発しソ連支援受けた金日成率い北朝鮮軍苦戦し始めた米国は、沖縄及び本土基地と、日本工業力を必要としていた。渉外連絡室はニブロ少将接触して東京機器製作所米軍ジープ貨物自動車等の修理作業受注した同年1月財閥解体により旧三菱重工業三社分割され9月上條中日本重工業名古屋製作所転出し10月自動車修理次長になった所長服部譲次副所長生駒修理部長兼ねていた。大江板金工場組立工場の全域わたって米軍ジープ修理工場としてのレイアウト行い流れ作業修理が行われるようにした。自動車修理仕事が終わると、バスボディを3/4tトラック装着する仕事GHQから与えられこうした朝鮮特需多く従業員が生活に必要な給与を得る仕事に就くことができた。その頃大江工場では自家製品として、平和のシンボルにちなみ「シルバーピジョン」と命名されスクーター造るようになり、工場活気づいてきた。 1952年昭和27年4月サンフランシスコ講和条約発効し航空機生産再開許可された。同時に発効した日米安全保障条約により、米軍日本国内駐留し続けることになった8月米軍から航空機修理持ちかけられ名古屋飛行場隣接した土地小牧工場建設されることになり、上條臨時航空部工場建設次長任命され12月18日竣工式が行われた。その間10月社名新三菱重工業名古屋製作所変更している。翌1953年昭和28年3月航空機部が新設され、「部長守屋学治次長には、小山庄之助、久保富夫上條勉佐々木一夫以下幹部それぞれ任命されたが、これらの人たちはいずれ戦時中名古屋にあって航空機機体発動機試作研究生産従事した古兵者」だった。上條初代小牧工場長になり、工場立ち上がり促進米軍監督官との接触通勤の足の確保定期バス)など、草創期における各種難問題を解決した同年6月小牧工場米国極東空軍から初の修理機体C-46輸送機B-26軽爆撃機搬入された。1954年昭和29年2月にはT-33ジェット戦闘機及びF-86セイバーIRAN称する機体オーバーホール作業始まり戦後日本初民間航空機工場できあがった作業はすべて米軍監督官命令に従わなければならなかったが、不合理な命令や無理な命令には上條絶対に引き下がらず、時々監督官衝突した。しかし安易な妥協をせず理路整然と反論し、それがかえって米側の信頼得た同年7月航空自衛隊発足し1956年昭和31年9月に、ノースアメリカン社品質管理指導の下、ノックダウン生産F-86F戦闘機第一号機を防衛庁納入した小牧工場見学者引きも切らず政治家三木武夫保利茂から、1958年昭和33年5月イラン国王モハンマド・レザー・パフラヴィーまで来所して、上條工場案内した翌年1月には米国次官マックワイヤーが小牧工場視察している。 小牧工場長7年務めた後、1959年昭和34年6月大江工場戻り工作部部長になった9月26日夕刻から夜半にかけて名古屋伊勢湾台風縦断満潮時と重なって高潮発生し、海に近い大江工場近辺工員住宅多数犠牲者出した上條久保富夫運転するフォルクスワーゲン・タイプ1で、堤防決壊海水侵入した道路強行突破して工場に向った。大江工場海水に1メートル半位浸かり工場内の航空機部品だけでなく工作機械早急に分解洗浄の必要があり、工作部部員集まり直ち必要な処置をした。1960年昭和35年)には、防衛庁からロッキード社F-104戦闘機注文があり、工作部技術者とともに技術調査のために8月から10月まで米国へ出張したロッキード社工場に行く前に月ロケット製造繁忙極め盛んに発射実験繰り返していたノースアメリカン社見学したロッキード社では全工場開放してF-104詳細な制作方法指導受けた1961年昭和36年6月久保富夫名古屋航空機製作所名航)の二代目所長になり、上條副所長になった。翌1962年昭和37年11月F-104生産国会問題再び渡米した。ロサンゼルスにあるロッキード社での交渉相手は、後にロッキード事件有名になったJ.W.クラッターだった。ロサンゼルス三菱商事事務所では、東京から防衛庁三菱重工本社2mに及ぶ要望事項毎夜テレックス送られ来て上條ロッキード側に東京から要望事項伝えて解決迫ったテレックス返事上條書き三菱商事機械部の近藤健男送信した10ヶ月間のロサンゼルス滞在後、名古屋帰った1962年昭和37年8月戦後初の国産旅客機輸送機YS-11が他の航空機メーカー共同製作された。翌1963年昭和38年9月には名航開発・製造した国産航空機MU-2双発ターボプロップビジネス機の試作1号初飛行している。1964年昭和39年9月本社機械事業部調査役経て同年11月から1972年昭和47年3月まで三菱ヨーク常務取締役務めた

※この「航空機産業の再建」の解説は、「上條勉」の解説の一部です。
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