航空機産業の再建
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敗戦と同時に航空機の研究、設計、製造が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令で禁止され、工場設備、機械はすべて賠償の対象にされて、封鎖された。1945年(昭和20年)10月に東京本社航空機部が廃止され、名古屋航空機製作所では、占領軍による大小全ての風洞の破壊命令で、航空機の生産は完全に止まっていた。1946年(昭和21年)6月、東京本社渉外連絡室が設けられ、財閥解体への対策、賠償指定の解除、民生機器の生産再開等の戦後処理に当たることになり、上條は英会話の力量を買われて渉外連絡室に抜擢された。翌1947年(昭和22年)の6月には、岡野保次郎社長が渉外連絡室長事務取扱、中川岩太郎が渉外次長、上條が渉外課長となり、GHQとの折衝を行った。折衝は初期段階では賠償機械の解除が主で、通商産業省の役人が解除の申請が出ている工場に行き実情を調査し、GHQに申し出る形式をとっていた。通産省の役人やGHQの要人とともに、造船関係では三菱重工の広島造船所、下関造船所、長崎造船所、神戸造船所、航空機関係では、熊本工場、京都の2工場、名古屋工場を視察した。占領政策の第二段階では、GHQは各工場に自立ができるような仕事を発注することを計画していた。上條は三菱重工の自立を一日も早く実現させようと努力し、GHQの情報は細大もらさず、ほとんど毎日社長室に報告した。 1948年(昭和23年)、米軍用車の修理の問題が持ち上がり、GHQの兵器局長ニブロ少将の一行が三菱重工の東京、名古屋、京都、水島、広島の工場を視察することになり、専用列車で巡回し、駅からはジープに分乗して工場に直行した。視察後、三菱重工業の東京機器製作所と菱和機器製作所を米軍のジープや乗用車等の修理工場と決定した。戦時中戦車工場だった東京機器製作所では工場の徹底した清掃後、米軍によって派遣された技術者によって工場のレイアウトが行われ、修理ラインがエンジンとシャーシーとで区別して造られた。1949年(昭和24年)に、大江工場では半金属、半木製の民間バスとスクールバスが泊り込み作業で製造され、東京の渉外部から上條が出張して、米軍監督官へのアピールのため車の並べ方、整頓を指導した結果、上々及第した。東京勤務中、1947年(昭和22年)9月に長男が生まれたが、1950年(25年)1月から総務部長付として、軍用車修理の問題で名古屋に長期出張するようになり、3月に妻幸子を病気で亡くした。 東西冷戦が激化する中で、6月に朝鮮戦争が勃発し、ソ連の支援を受けた金日成率いる北朝鮮軍に苦戦し始めた米国は、沖縄及び本土の基地と、日本の工業力を必要としていた。渉外連絡室はニブロ少将と接触して、東京機器製作所に米軍のジープや貨物自動車等の修理作業を受注した。同年1月、財閥解体により旧三菱重工業は三社に分割され、9月に上條は中日本重工業名古屋製作所に転出し、10月に自動車修理次長になった。所長は服部譲次、副所長は生駒で修理部長を兼ねていた。大江の板金工場と組立工場の全域にわたって、米軍のジープの修理工場としてのレイアウトを行い、流れ作業で修理が行われるようにした。自動車修理の仕事が終わると、バスボディを3/4tトラックに装着する仕事がGHQから与えられ、こうした朝鮮特需で多くの従業員が生活に必要な給与を得る仕事に就くことができた。その頃大江工場では自家製品として、平和のシンボルにちなみ「シルバーピジョン」と命名されたスクーターを造るようになり、工場も活気づいてきた。 1952年(昭和27年)4月にサンフランシスコ講和条約が発効し、航空機生産の再開が許可された。同時に発効した日米安全保障条約により、米軍は日本国内に駐留し続けることになった。8月に米軍から航空機の修理を持ちかけられ、名古屋飛行場に隣接した土地に小牧工場が建設されることになり、上條は臨時航空部工場建設部次長に任命され、12月18日に竣工式が行われた。その間、10月に社名を新三菱重工業名古屋製作所に変更している。翌1953年(昭和28年)3月に航空機部が新設され、「部長守屋学治、次長には、小山庄之助、久保富夫、上條勉、佐々木一夫以下幹部がそれぞれ任命されたが、これらの人たちはいずれも戦時中名古屋にあって、航空機の機体、発動機の試作研究、生産に従事した古兵者」だった。上條が初代小牧工場長になり、工場の立ち上がり促進、米軍監督官との接触、通勤の足の確保(定期バス)など、草創期における各種難問題を解決した。 同年6月、小牧工場に米国極東空軍から初の修理機体のC-46輸送機、B-26軽爆撃機が搬入された。1954年(昭和29年)2月にはT-33ジェット戦闘機及びF-86セイバーのIRANと称する機体オーバーホール作業が始まり、戦後日本初の民間航空機工場ができあがった。作業はすべて米軍監督官の命令に従わなければならなかったが、不合理な命令や無理な命令には上條は絶対に引き下がらず、時々監督官と衝突した。しかし安易な妥協をせず理路整然と反論し、それがかえって米側の信頼を得た。同年7月、航空自衛隊が発足し、1956年(昭和31年)9月に、ノースアメリカン社の品質管理の指導の下、ノックダウン生産のF-86F戦闘機の第一号機を防衛庁に納入した。小牧工場の見学者は引きも切らず、政治家は三木武夫、保利茂から、1958年(昭和33年)5月にイラン国王のモハンマド・レザー・パフラヴィーまで来所して、上條が工場を案内した。翌年1月には米国防次官マックワイヤーが小牧工場を視察している。 小牧工場長を7年務めた後、1959年(昭和34年)6月に大江工場に戻り、工作部部長になった。9月26日夕刻から夜半にかけて名古屋を伊勢湾台風が縦断、満潮時と重なって高潮が発生し、海に近い大江工場近辺の工員住宅で多数の犠牲者を出した。上條は久保富夫の運転するフォルクスワーゲン・タイプ1で、堤防決壊で海水の侵入した道路を強行突破して工場に向った。大江工場は海水に1メートル半位浸かり、工場内の航空機部品だけでなく工作機械も早急に分解洗浄の必要があり、工作部の部員が集まり直ちに必要な処置をした。1960年(昭和35年)には、防衛庁からロッキード社のF-104戦闘機の注文があり、工作部の技術者とともに技術調査のために8月から10月まで米国へ出張した。ロッキード社の工場に行く前に、月ロケット製造に繁忙を極め、盛んに発射実験を繰り返していたノースアメリカン社を見学した。ロッキード社では全工場を開放して、F-104の詳細な制作方法の指導を受けた。 1961年(昭和36年)6月に久保富夫が名古屋航空機製作所(名航)の二代目所長になり、上條は副所長になった。翌1962年(昭和37年)11月にF-104生産と国会の問題で再び渡米した。ロサンゼルスにあるロッキード社での交渉相手は、後にロッキード事件で有名になったJ.W.クラッターだった。ロサンゼルスの三菱商事の事務所では、東京から防衛庁と三菱重工本社の2mに及ぶ要望事項が毎夜テレックスで送られて来て、上條はロッキード側に東京からの要望事項を伝えて解決を迫った。テレックスの返事は上條が書き、三菱商事機械部の近藤健男が送信した。10ヶ月間のロサンゼルス滞在後、名古屋に帰った。1962年(昭和37年)8月、戦後初の国産旅客機・輸送機のYS-11が他の航空機メーカーと共同で製作された。翌1963年(昭和38年)9月には名航が開発・製造した国産航空機MU-2双発ターボプロップビジネス機の試作1号が初飛行している。1964年(昭和39年)9月に本社の機械事業部調査役を経て、同年11月から1972年(昭和47年)3月まで三菱ヨークの常務取締役を務めた。
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