上條勉
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上條 勉(かみじょう つとむ、1905年7月20日 - 1983年5月7日)は、日本の航空機技術者。三菱重工業名古屋航空機製作所(現・三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所)機体部設計課技師、技術部設計課技師を経て、新三菱重工業名古屋航空機製作所小牧工場初代工場長、同名古屋航空機製作所副所長を歴任。クリスチャン。
- ^ 実父は北深志西町の旧松本藩士・汲田伴蔵で1888年(明治21年)に東ノ丁の旧松本藩士・上條昌克の養嗣子になった。
- ^ 1889年(明治22年)から真壁町で採石した花崗岩を東京へ搬出していた[1]。
- ^ 外国の賓客に日本文化を紹介するために、浅野が1909年(明治42年)に建てた民間の迎賓館[4]。
- ^ 青山練兵場(現・明治神宮外苑)に設けられた。
- ^ すぐれた教育研究は自然を尊ぶ、つまり学問は強制されるものでなく、自らの意志で自発的に学ぶものであるという自学自発の教育主義[11]。
- ^ 「日本人と日系人-日本ボストン会」表1に1918年にMITに留学、水力学の大家で上條勉の先生との記述がある。
- ^ 両校はいずれも鈴木達治が校長を兼務していた。
- ^ 英語を得意とし、早稲田大学卒業後、ミシガン大学に留学した時、勉と下宿で机を向い合せて夜遅くまで勉強した。浅野綜合中学校で勤務後、同盟通信社欧米部長を経て、戦後は時事通信社の『時事英語通信』、『ジャパン・トレード・カイド』編集長を歴任した。[13]。
- ^ さしがや、現在の文京区白山。
- ^ Verna S.Hertler、1911年(明治44年)に横浜に上陸、キリスト教の伝道に尽くし、勲四等の叙勲を受けている。伝記『恩寵の奇蹟』、『日本への私の使命』の著作がある[14]。
- ^ 船で親しくなった3人で、10ドルずつ出し合って購入した(当時の為替相場は1ドル2円)[19]。
- ^ 当時、米国留学生はたいてい9月の入学前に渡航して、カリフォルニアの農園でアルバイトをした[20]。
- ^ "Bachelor of Science in Aeronautical Engineering"
- ^ Christian Association、日本からの留学生、ニューヨーク在住の領事館員、商社員の家族などの集会所で、日本人相互の連絡、世話をした[21]。
- ^ 後に日本大学の法学部部長、副総長を歴任。
- ^ Frank Gordon Pettengill
- ^ Gessie Pettengill
- ^ "Aeronautical Engineer"。1936年(昭和11年)2月にニューヨーク大学のCollege of Engineeringから航空機技術者の資格を記した卒業証書が送られてきた[23]。
- ^ "Master of Scicence in Aeronautical Engineering"
- ^ 後に名古屋航空機製作所第二代所長、三菱自動車工業(株)取締役社長、取締役会長を歴任した[29]。
- ^ ワグナー効果と呼ばれる曲げ捻じれを考慮したビーム(梁)
- ^ 上條は高橋是清暗殺の報を聞いた2月27日に、『高橋是清自傳』を読了した。1936年千倉書房発行の『高橋是清自傳』の裏表紙に感想が記されている。「嗚呼人生不可知、人欲幸不可憂明日」
- ^ 名古屋市港区の大江埋立地にあった。
- ^ プラット・アンド・ホイットニー社、シコルスキー社、ライト・エアロノーティカル・コーポレーション等
- ^ 緒戦でUボートは大西洋で英国商船に対し大きな被害を与え、1940年から41年にかけて英・仏の港湾を襲撃し、多数の商船を沈没させていた[36]。
- ^ 主な人物として、北代誠彌・日本銀行、増田昇二三菱商事前ニューヨーク支店長、目賀田重芳大倉商事取締役、永島忠雄三菱銀行ニューヨーク支店長、渡邉康策日本郵船支店長、澤田文治・山下汽船等がいた[38]。
- ^ 堀越二郎が上条(ママ)技師から聞いた話では、新聞には「零戦」によるアメリカ軍の損害は重大(シリアス)と書かれていた[39]。
- ^ 1421名が乗船していて、寺崎英成駐米大使館一等書記官と妻グエン、娘マリ子、都留重人、留学生の鶴見和子・鶴見俊輔姉弟、平岡養一等も交換船で帰国した[41]。
- ^ 8月9日に日本の占領下のシンガポールに寄港して軍人や憲兵、新聞記者が乗り込ん込んで来ると、船内の空気ががらりと変わり、海軍の将校が連日、西欧的自由主義を一掃して、忠君愛国の決意を固めるべきと説教した[43]。
- ^ 在米中及び船中で、上條技師と発動機谷技師は来栖三郎特派全権大使、若杉要駐米公使、森富夫総領事、近藤晋一領事、本城文彦外務省在外研究員、前田多門日本文化会館長等に多大な便宜を與えられた[44]。
- ^ 磯田三郎陸軍少将、濱本匡甫海軍大佐、石川秀江陸軍大佐、実松譲海軍中佐、和智恒蔵陸軍中佐、寺井義守海軍少佐[44]。
- ^ 内務省警保局編『極秘 外事警察概況』によると、8月19日に館山沖で浅間丸を停泊させ、神奈川県水上警察と横浜憲兵隊が乗り込み、取調べをした後、敵国の国内事情(強大な経済力、豊富な資源等)を誇張して敵国を利する言動をした場合は処罰される、講演会に出る場合は話の内容を事前に所轄警察署に申告し検閲を受ける等の注意書が配られた[48]。
- ^ 堀越の名航時代の同僚で、航空発動機振動の研究で零戦製作に協力した。ケンブリッジ大学卒、物理学者・数学者、上智大学教授[53]。
- ^ 山室萬里子。外務大臣を務めた有田八郎の次女。
- ^ 島倉幸子の母・島倉マチは、有田八郎の従妹で、有田の夫人と姉妹、新潟県初の女医。マチの祖父の弟は島倉伊之助(司馬凌海)。
- ^ 当時松本は、陸軍歩兵第50連隊の駐屯地や多くの軍需工場が集まる軍都だった。
- ^ 地下工場は山の中をくり抜いて作られ、半地下工場は畑の中に作られた。
- ^ 歴史教育者協議会等による里山辺における朝鮮人の強制連行・強制労働の実態調査報告書がある[55]。
- ^ 中山地区、500余人
- ^ 東京出張所が日本郵船ビルに置かれていた。
- ^ 東日本、中日本、西日本重工業
- ^ 1946年(昭和21年)に、三菱重工業名古屋機器製作所で試作車が完成し、その年の暮に発売された[65]。
- ^ 『三菱重工名古屋航空機製作所二十五年史』32頁に英語とTO(作業指示書)に散々悩まされたという記述がある。
- ^ 白井秀雄「戦後名製発展への歩み」『往事茫茫 三菱重工名古屋五十年の回顧』3巻 788頁に、「オーバーホールの仕事は、最後の検査の判定が検査官の個人的意見により変るらしく、当方は立派に合格と思うものが、落第と宣告され、小牧工場長の上條勉君はたいへんに苦労した。」という記述がある。
- ^ 小泉博「人なり」『往時茫茫 三菱重工名古屋五十年の回顧』2巻 500頁に「昭和二十九年、F86-Fの修理作業が始まった。この年十月、十一月で二十五機の突貫作業が開始、毎日毎日上條さん、米軍監察官も出向いて率先指導・・・」という記述がある。
- ^ 1956年(昭和31年)に新三菱重工業名古屋製作所(名製)から名古屋航空機製作所として分離独立した。
- ^ 1922-1986。川西航空機で戦闘機紫電改の設計担当。戦後は三菱商事の航空機電子機器部長などを務め、副社長を経て社長に就任した。
- ^ 米国のボーグワーナー社の子会社で冷凍機製造のヨーク社と三菱の合弁会社。
- ^ 長秋雄「筑波花こう岩と旧筑波町の歴史」地質調査総合センター
- ^ 新田純子『九転十起の男』235頁
- ^ 『五島慶太の追想』435頁
- ^ 「紫雲閣 明治中期の名建築」浅野総一郎記念会
- ^ 上條勉『大空への道』23頁
- ^ 『日本航空史 明治大正偏』62頁
- ^ 上條勉『大空への道』29-30頁
- ^ 高宮晋「上條勉さんの憶出」『大空への道』157-158頁
- ^ 年譜『故水崎基一先生 追悼』4頁
- ^ 年譜『大空への道』235頁
- ^ 「横浜国立大学 理工学部 電子情報システム教育プログラム」
- ^ 金子猛夫「故上條勉氏の追憶」『大空への旅』161頁
- ^ 上條勉『大空への道』81頁
- ^ 石川久能「竹内先生と私」横浜国立大学 117-118頁
- ^ 「別離」『大空への道』231頁
- ^ 石川久能「竹内先生と私」横浜国立大学 117-118頁
- ^ 石川久能「上條先生とミス・ハツラー」『大空への道』追録1-2頁
- ^ 上條勉『大空への道』61頁
- ^ 上條勉「大空への道」66頁
- ^ 郷司浩平「窮余の一策」『大空への旅』171頁
- ^ 川西誠「上條君の身辺」『大空への道』214頁
- ^ a b 川西誠「上條勉君の身辺」『大空への道』214-216頁
- ^ 上條勉『大空への道』グラビア及び97頁
- ^ 三好彰「ボストン日本人学生会の記録」『東日本英学史研究』第12号 63頁
- ^ 上條勉『大空への道』88-89頁
- ^ 川西誠「上條君の身辺」『大空への道』217頁
- ^ 川西誠「上條君の身辺」『大空への道』219-220頁
- ^ 長谷川實「上條さんについて(三菱の職員名簿より)」『大空への道』176-177頁
- ^ 「久保富夫」日本自動車殿堂 JAHFA
- ^ 松岡久光「みつびし飛行機物語」398-403頁
- ^ 水崎基一「日記抄」『故水崎基一先生 追悼』56頁
- ^ 川西誠「上條君の身辺」『大空への道』220-221頁
- ^ 職歴「年譜」『大空への道』235頁
- ^ 上條勉『大空への道』109頁
- ^ 上條勉『大空への道』110頁
- ^ 「ニューヨーク港 1901年」PSYCROSS BLOG
- ^ 上條勉」『大空への道』110-111頁
- ^ 「三菱重工業名古屋航空機製作所の庶務課文書」1942年(昭和17年)
- ^ 堀越二郎「零戦 その誕生と栄光の記録」206-207頁
- ^ 上條勉『大空への道』111-117頁
- ^ 鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創『日米交換船』10頁、314頁
- ^ 上條勉『大空への道』119頁
- ^ 柳田邦男『マリコ』155-156頁
- ^ a b 「三菱重工業名古屋航空機製作所の庶務課文書」1942年(昭和17年)(三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室)
- ^ 松岡久光『みつびし 飛行機物語』11-14頁
- ^ 上條勉『大空への道』123頁
- ^ 堀越二郎『零戦 その誕生と栄光の記録』206頁
- ^ 鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創『日米交換船』175-177頁
- ^ 上條勉『大空への道』124頁
- ^ 大木喬之助「思い出三題」『大空への道』174頁
- ^ a b 堀越二郎『零戦 その誕生と栄光の記録』206-207頁
- ^ 吉村収「第二研究課長時代の上條さん」『大空への道』181-182頁
- ^ 「山室宗忠」歴史が眠る多磨霊園
- ^ 『松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書』14-18頁
- ^ 『松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書』57-59頁
- ^ 『松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書』18-48頁、「結語」215-217頁
- ^ 松本市『広報まつもと』昭和60年8月15日号、6頁
- ^ a b 久保富夫「序」『大空への道』5頁
- ^ 井上傳一郎「戦後の想い出」『往時茫茫 三菱重工名古屋五十年の回顧』3巻
- ^ 由比直一「上條君の思い出とその足跡」『大空への道』184頁
- ^ 中川岩太郎「上條君の想い出」『大空への道』191頁
- ^ 上條勉『大空への道』133頁
- ^ 小泉博「人なり」『往時茫茫 三菱重工名古屋五十年の回顧』1巻 497頁
- ^ 中川岩太郎「上條君の想い出」『大空への道』192頁
- ^ 「三菱オートギャラリー」
- ^ 上條勉『大空への道』130-133頁
- ^ 『三菱重工名古屋航空機製作所二十五年史』21頁
- ^ 『三菱重工名古屋航空機製作所二十五年史』33頁
- ^ 「名製時報」『三菱重工名古屋航空機製作所二十五年史』31頁
- ^ Inspection&Repair As Necessary(機体定期修理)
- ^ 由比直一「上條君の思い出とその足跡」『大空への道』186-187頁
- ^ 「年表」『三菱重工名古屋航空機製作所二十五年史』688-692頁
- ^ 資料編「所長、副所長、技師長在任表」『三菱重工名古屋航空機製作所二十五年史』644-645頁
- ^ a b 久保富夫「航空機とともに歩んだ25年」『三菱重工名古屋航空機製作所二十五年史』序文
- ^ 上條勉『大空への道』136-137頁
- ^ 資料編「所長、副所長、技師長在任表」『三菱重工名古屋航空機製作所二十五年史』640-645頁
- ^ 川西誠「上條勉君の身辺」『大空への道』225-226頁
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