航空機技術者
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1934年(昭和9年)に米国留学から帰国すると、横浜高工の鈴木校長から航空学科を新設したいので学校に来るように勧められた。一方、遠藤政直教授は、中学時代から親しくしていた三菱重工常務の郷古潔に紹介してくれた。いずれを取るか非常に迷ったが、水崎に相談すると、「寄らば大樹の陰」で学校に行くよりも三菱重工を勧めたが、選択は本人次第と言った。翌1935年(昭和10年)2月、三菱重工業名古屋航空機製作所機体部設計課技師として採用された。課長は服部譲次で、上條の上に河野文彦、本庄季郎、加藤定彦、堀越二郎、由比直一、久保富夫らがいた。 仕事は強度計算や性能計算に明け暮れ、荷圧試験を担当して、鉛弾を翼の裏側に積み、規定された弾力試験、破壊試験等を行った。設計に関連したものは、はじめは海軍機の九試単座戦闘機、十試艦上攻撃機等で、後に陸軍の九七式司令部偵察機、及びその試作第二号機で朝日新聞社が購入し欧亜連絡飛行で新記録を樹立した「神風号」等の強度計算を行った。当時流行した、薄板構造のワグナー・ビームが主翼に主として用いられた。計算機がない時代、スライド・ルール(計算尺)で朝から晩まで計算していた生活の中、1935年(昭和10年)12月に突然血痰が出て休養を要すると診断された。松本の姉の家で安静にした後、浅間温泉の蔦の湯に1ヶ月程滞在したが、寒い季節のため、1936年(昭和11年)、暖かい伊東で静養することにした。伊東滞在中、親友の川西が見舞いに訪れた時に、二・二六事件が起きた。5月に万座温泉に移り、8月まで逗留して、9月1日に名古屋に戻り、大江工場に出社した。
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