【神風号】(かみかぜごう)
1930年代、東京朝日新聞社(以下「朝日」)が運用していた高速通信機。
三菱重工が帝国陸軍航空隊に納入していた長距離高速偵察機「九七式司令部偵察機」の試作2号機を払い下げられたもので、日本製航空機としては初めて日本~ヨーロッパ間の往復飛行を達成した機体でもある。
1936年12月、英国の新国王に即位したジョージ6世の戴冠式が翌1937年5月12日にロンドンで行われることとなり、朝日はその「奉祝」を名目として亜欧連絡飛行を企画した。
当時、ヨーロッパと日本を結ぶ定期航空路は開設されておらず、また、日本からヨーロッパへ向けて飛ぶルートは逆風となることもあって、飛行は困難を極めていた。
しかし朝日は、(本機のベースとなる機体の供与など)陸軍の協力も得てこのフライトへの挑戦を決定。
乗員には朝日社員であった飯沼正明(操縦士)・塚越賢爾(航空機関士)の2名を選び、機体の愛称は公募により「神風号」と決定された。
本機は1937年4月1日、東京・羽田飛行場で命名式兼出発式を行い、ヨーロッパへのフライトに挑戦したが、このときは九州まで飛んだところで天候悪化によって飛行継続を断念、翌日に東京へ引き返して天候の回復を待った。
そして6日深夜2時、陸軍立川飛行場から再スタート。
途中、台北~ハノイ~ビエンチャン(給油・仮眠)~カルカッタ~ジョドプール~カラチ(給油・仮眠)~バスラ~バクダッド~アテネ(給油・仮眠)~ローマ~パリを経由し、現地時間の4月9日午後3時過ぎ(日本時間では10日午前0時過ぎ)、目的地のロンドン・クロイドン空港へ着陸した。
立川~クロイドン間の所要時間は94時間17分56秒で、そのうち、給油・仮眠を除く実飛行時間は51時間19分23秒だった。
英国到着後、本機は4月12日、昭和天皇の名代として海路、英国へ向かっていた秩父宮夫妻を空から迎えた後、ヨーロッパ各地を親善訪問した。
そして、5月12日の戴冠式の模様を収録した映画フィルムを積み込んで14日にロンドンから出発。21日に大阪を経由して羽田飛行場に着陸、任務を完遂した。
関連:九七式司令部偵察機
機体と乗員のその後
欧州での任務完遂後、同機のクルーだった飯沼・塚越の両名はそれぞれ別の乗員と組み、引き続き朝日の社員として活躍した。
飯沼操縦士は大東亜戦争開戦直後の1941年12月11日、用務で立ち寄ったプノンペンの陸軍飛行場で事故死。
また、塚越機関士は1943年7月7日、ドイツへ向かうA-26実験機に搭乗してシンガポールを離陸したのを最後に消息不明となった。
そして本機は、第二次世界大戦開戦直後の1939年10月、欧州戦線の模様を収録した写真や映画フィルムを積み込んで飛行中、台湾南方沖に不時着水して大破したため廃棄されてしまった。
神風号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 19:26 UTC 版)
「九七式司令部偵察機#神風号」も参照 1937年、朝日新聞社では5月12日にロンドンで行われるジョージ6世の戴冠式奉祝の名のもとに、亜欧連絡飛行を計画し、本機の試作2号機を払い下げるよう陸軍に依頼した。当時、日本とヨーロッパを結ぶ定期航空路はなく、また東京からロンドンへの飛行は逆風であり、パリ-東京間100時間を賭けるフランスの試みも失敗を繰り返していた。陸軍からの了承も得て、機体愛称としては公募した中から「神風」が選ばれた。 ただし、イギリス政府による飛行許可自体はなかなか下りず、時の吉田茂駐英大使も「公式行事輻輳する折柄、此の種の飛行一つを認むるとせば、他国よりも多数申出あるべく、混雑する恐れありとし体よく断わり来り」との報告電を発信していた。その一方で、日本では神風号搭乗員の人選が行われており、秦郁彦は、賢爾に神風号搭乗員の内示が出たのは1937年正月ごろとしている。 しかし、賢爾自身は思うところあってか、この任務を辞退しようとしていた。この頃、父の金次郎が病床に臥せっており、賢爾が神風号搭乗員に選ばれたことを喜んでいたので、賢爾から辞退の意向を告げられた際には激怒し、薬断ちを行った後亡くなった。 4月6日、神風号は立川飛行場を出発。ヴィエンチャン、カルカッタ、カラチ、バグダッド、アテネなどを中継する、15,357キロメートルの距離を94時間17分56秒の飛行の後、ロンドンに到着した。賢爾と飯沼はクロイドン空港に到着した時点から一躍人気者となり、親善訪問したヨーロッパ各地(ベルギー・ドイツ・フランス・イタリア)で大歓迎された。5月21日に帰国後も賢爾、飯沼両名に対する歓迎の嵐は止まず、山のような祝賀行事に加え、昭和天皇への拝謁なども行われた。神風号の快挙で、賢爾本人のみならず一家も全国的な有名人となっていた。 神風号の快挙から程なくして日中戦争が勃発。賢爾と飯沼はそれぞれ別の搭乗員と組むようになった。賢爾は東京本社に戻り、日本と中国大陸を往復する日々が続いた。またこの頃、大森の亡き父金次郎の土地に移った。1940年、新開発のA-26(陸軍機としての称号はキ77)による東京 - ニューヨーク親善飛行が計画され、この計画の要員の中には賢爾と飯沼の名前もあった。1941年に計画された飛行が実現すればコンビ復活だったが、同年秋に日米関係の悪化により計画は中止。飯沼は太平洋戦争開戦3日後の12月11日、陸軍の軍務で立ち寄ったプノンペンの航空基地で九八式直協偵察機のプロペラにはねられて死亡し、神風号のコンビはついに復活することはなかった。飯沼は、その直前に偶然、出先で賢爾と顔を合わせたばっかりだった。
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