ニューヨーク駐在とは? わかりやすく解説

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ニューヨーク駐在

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 08:11 UTC 版)

上條勉」の記事における「ニューヨーク駐在」の解説

1938年昭和13年6月にニューヨーク駐在員として米国出張命じられ横浜港から大洋丸出発した駐在員仕事は、航空機に関する新し情報収集部品及び工作機械購入等について商事会社三菱商事)へのアドバイス調査のため渡米した人々対す助言助力陸海軍事務所駐在員との交際ライセンス関係にある米国航空関係会社との交際情報取得、そして工作機械工場見学情報報告等が主な業務だった。二間続き独立した事務所与えられ一室旭硝子開発部長の山本英雄使い親しく交際したニューヨーク滞在中、修道会出入りし川俣牧師をはじめ色々な人々親しく交際し教会集まりにもできるだけ出席したMIT留学時代学資援助してくれた、日本陶器ブランド名はノリタケ・チャイナ)ニューヨーク販売総支配人中山武夫から頼まれて、「製紙王」と言われ藤原銀次郎会い米国の大学教育事情について聞かれた。日本の大学違い米国の大学では勉強に次ぐ勉強苦闘しなくては卒業できない旨を伝えると、藤原は「米国自由な国と聞いているので、大学もさぞゆったりして自由なものかと思っていたが、失望したと言った藤原帰国して1939年昭和14年5月横浜市日吉藤原工業大学(後の慶應義塾大学理工学部)を創設している。 1939年昭和14年9月ドイツポーランド侵攻しイギリスフランスドイツ宣戦布告して、次第欧州事情複雑になり、陸海軍事務所人々日本引き上げて行き情勢ただならぬようになって来た。1941年昭和16年)、欧州から帰ったチャールズ・リンドバーグ大佐マディソン・スクエア・ガーデンでの演説聞いた聴衆会場入りきれず、会場の外にあふれていた。演説ドイツの航空機生産状況米国とは比較にならず、今戦争をすれば敗戦目に見えているので、戦争始めない方がよいと力説した。この演説ワシントン大反響起こし世論リンドバーグは臆病ということになった9月ルーズベルト大統領大佐陸軍航空隊委任解除し大西洋単独無着陸横断飛行によって得た大佐の名誉は剥奪されてしまった。 新聞毎日のように、ドイツUボート出没告げ、それによる被害報道するようになったセバスキー社の社長今後戦争は船の時代終わり航空機であるという論説ニューヨーク・タイムズ掲げて、すっかり米国戦争気分になっていた。駐在事務所にも差出人不明なヒトラーは『我が闘争』の中で日本人種的に蔑視していて、自国利益し考えていないので、日本ドイツとは組まないように努力すべき」との文面の手紙が舞い込んだこの頃米国中部地区自動車工場協力得て航空機大工場作り、わずか半年戦闘機航空機生産月産200程度から年産125千機に増産する軌道乗せた上條印象では、日本陸軍海軍比べ米国潜在能力をよく見ていなかった。 1941年昭和16年12月8日パール・ハーバー真珠湾)が日本海軍航空部隊によって攻撃され報道修道会ラジオ聞いたフィオレロ・ラガーディア市長指示で、日独伊敵国人マンハッタンから出られなくなったラジオ敵国人持っているすべての写真機指定された場所に納入せよという通達があり、写真機持って指定場所に行くと、FBI連邦捜査局局員連行され取調べ受けた駐在員事務所にあった書類一切リストアップされていて、取り調べエリス島送られることになった日本の大会社の支店長をはじめ、出張員等のほとんどが収容されていた。ドイツ人仲間に会うと「ハイル・ヒトラー」と唱和して、自分達は世界最優秀の国民だという気持ちあふれていた。イタリア人今更あわてて仕方がないという気持ちからか、ギャンブル興じていた。 新聞雑誌自由に読め新聞記事軍艦沈没数や艦船の名称まで、毎日戦闘載せて戦況日々読者分かるようにしていた。零戦華々しく報道され活躍ぶりは正直に書かれていた。1942年昭和17年5月終り頃から交換船の話が出たが、海軍軍人取調べ結果荷物大部分航空機関係書物だったため、交換船には乗れないことになった。ところが米国側が乗員予定者を一人減らせば、日本側も一人減らさなければならない野村吉三郎駐米特命全権大使ワシントン交渉した結果無事に第一次日米交換船乗ることができた。 6月18日中立国スウェーデン客船グリップスホルム号でニューヨーク港出帆し7月2日リオデジャネイロ着、7月22日ポルトガル領東アフリカ(現・モザンビーク)のロレンソ・マルケス交換船浅間丸イタリア船コンテ・ヴェルデ号が入港し26日浅間丸乗船した。グリップスホルム号ではデモクラティックだったが、浅間丸では一変して軍の支配下に船全体置かれ重苦しい空気になった野村大使、井口貞夫参事官及び大使館付の人が米国航空機産業実情聞きたいということで、野村大使の部屋招かれて、開戦後米国航空機生産対す方針現状報告した外交官国際法上から持ち物全部持ち帰ることができたので、フォーチューン等の雑誌集めてもらい、記憶あいまいな所を明確にして、開戦後動き数日にわたり、駐在武官に対して説明したニューヨーク発ってから、62日間長い航海終えて8月20日横浜港岸壁着いた1942年昭和17年9月三菱重工業名古屋航空機製作所戻った所長岡野保次郎副所長服部譲次荘田泰蔵吉田だった。陸、海軍競合露骨になり、陸軍関係と海軍関係の設計者分離して1940年昭和15年)に作られ設計部門組織は、2年後9月変更され技術部長は河野文彦技術部長付は大木喬之助、堀越二郎本庄季郎上條技術部第二研究課長兼同課研究係長役職になった研究課には、第一及び第二研究課があり、第一研究課空力研究課で、設計課で設計され航空機模型造って風洞実験行い第二研究課設計使用材料強度の安全を確保するための材料試験主な仕事で、材料引張圧縮試験から、疲労試験化学分析光弾性試験等様々な試験行った米国から帰国後、三菱重工業本店幹部名古屋航空機製作所陸海軍将校をはじめ海軍軍令部次長以下大佐軍人等、色々な方面から講演求められた。警視庁特高課にも呼ばれ迷惑をかけることはしないから真実話してほしいと言われた。米国航空機生産では、工場による機種統一等、セクショナリズム極力避けた全体規模大量生産考え設計も最も合理的な大量生産向き改め、わずか半年のうちに年産125千機という生産軌道乗せたこと、また米国では日本及び日本語研究積極的に行っているのに対して日本では英語を敵性語としてなるべく遠ざけるようにしている、米国音楽を心の浮き立つような勇壮なものにしているが、日本軍歌は悲しいものが多い、等々各所話した日本ラジオ新聞報道米国のように正確なものではなく1942年昭和17年6月ミッドウェー海戦大敗北を隠し国民安心したり、喜んだりするように作られていたので、会社内部でもかなり楽観的な意見を吐く人が多かった留学中米国実情技術者生きた目で見てきた上條には、日本直面する戦争無謀さ直視できず、折を見てあらゆる方面呼びかけ、まず速やかに戦線縮小するとともに一日早く戦争終結すべしと力説して廻ったが、耳を貸す者はほとんどいなかった。設計課の堀越二郎上條から「アメリカ軍飛行機天文学的数字ともいえるほどの増産計画零戦打倒するためいくつもの新戦闘機開発着々とすすめられているようすだ」と聞いて冷水浴びせられるような思いをした。堀越米国留学経験があり、米国工業力と航空技術知り抜いていたが、それまで半信半疑ながら緒戦での戦勝気分同調していた。 第二研究課課員10-20代の血気盛ん若者がほとんどで、上條課員始終言っていた「君たちがいくら働いても、どうせ日本勝てないからほどほどにやれ」という言葉対す反発がかなり強かった造兵廠から委託された、機銃小銃弾丸被甲材料白銅からアルミ置き換え、これに銅メッキを施す研究情熱傾けていた課員一人は、上條の「人間直接殺害するような武器研究ほどほどにして、最終的に不可能との報告をだすように」という指示に、技術者良心として承知できない、と反駁して互いに大声怒鳴り合ったこともあった。上條意欲燃やした唯一のテーマ搭乗員の命を守る防弾タンク研究だった。 1944年昭和19年5月堀越二郎紹介で、堀越親友だった山室宗忠の夫人親戚にあたる、島倉幸子中山武夫夫妻の媒酌結婚した12月7日名古屋地方紀伊半島南東沖を震源とするマグニチュード7・9東南海地震起き名古屋航空機製作所では航空機組み立て治具や床が破壊され生産が全く途絶えたところに13日米軍戦略爆撃機B-29爆撃集中的に受けて工場機能は完全に止まった。この攻撃に対して防空壕だけで防備態勢は何も取られていなかった。

※この「ニューヨーク駐在」の解説は、「上條勉」の解説の一部です。
「ニューヨーク駐在」を含む「上條勉」の記事については、「上條勉」の概要を参照ください。

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