ニューヨーク駐在
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1938年(昭和13年)6月にニューヨーク駐在員として米国出張を命じられ、横浜港から大洋丸で出発した。駐在員の仕事は、航空機に関する新しい情報の収集、部品及び工作機械購入等について商事会社(三菱商事)へのアドバイス、調査のため渡米した人々に対する助言や助力、陸海軍事務所駐在員との交際、ライセンス関係にある米国航空関係会社との交際と情報の取得、そして工作機械工場の見学と情報の報告等が主な業務だった。二間続きの独立した事務所が与えられ、一室を旭硝子開発部長の山本英雄が使い、親しく交際した。ニューヨーク滞在中、修道会に出入りし川俣牧師をはじめ色々な人々と親しく交際し、教会の集まりにもできるだけ出席した。MIT留学時代に学資を援助してくれた、日本陶器(ブランド名はノリタケ・チャイナ)ニューヨーク販売店総支配人の中山武夫から頼まれて、「製紙王」と言われた藤原銀次郎に会い、米国の大学教育事情について聞かれた。日本の大学と違い、米国の大学では勉強に次ぐ勉強で苦闘しなくては卒業できない旨を伝えると、藤原は「米国は自由な国と聞いているので、大学もさぞゆったりして自由なものかと思っていたが、失望した」と言った。藤原は帰国して、1939年(昭和14年)5月、横浜市日吉に藤原工業大学(後の慶應義塾大学理工学部)を創設している。 1939年(昭和14年)9月にドイツがポーランドに侵攻し、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告して、次第に欧州の事情が複雑になり、陸海軍の事務所の人々も日本に引き上げて行き、情勢がただならぬようになって来た。1941年(昭和16年)、欧州から帰ったチャールズ・リンドバーグ大佐のマディソン・スクエア・ガーデンでの演説を聞いた。聴衆は会場に入りきれず、会場の外にあふれていた。演説でドイツの航空機の生産状況は米国とは比較にならず、今戦争をすれば敗戦は目に見えているので、戦争は始めない方がよいと力説した。この演説はワシントンに大反響を起こし、世論はリンドバーグは臆病ということになった。9月にルーズベルト大統領は大佐の陸軍航空隊の委任を解除し、大西洋単独無着陸横断飛行によって得た大佐の名誉は剥奪されてしまった。 新聞は毎日のように、ドイツのUボートの出没を告げ、それによる被害を報道するようになった。セバスキー社の社長は今後の戦争は船の時代は終わり、航空機であるという論説をニューヨーク・タイムズに掲げて、すっかり米国は戦争気分になっていた。駐在事務所にも差出人が不明な「ヒトラーは『我が闘争』の中で日本を人種的に蔑視していて、自国の利益しか考えていないので、日本はドイツとは組まないように努力すべき」との文面の手紙が舞い込んだ。この頃、米国は中部地区に自動車工場の協力を得て航空機の大工場を作り、わずか半年で戦闘機用航空機の生産を月産200機程度から年産12万5千機に増産する軌道に乗せた。上條の印象では、日本陸軍は海軍に比べ米国の潜在能力をよく見ていなかった。 1941年(昭和16年)12月8日、パール・ハーバー(真珠湾)が日本海軍航空部隊によって攻撃された報道を修道会のラジオで聞いた。フィオレロ・ラガーディア市長の指示で、日独伊の敵国人はマンハッタンから出られなくなった。ラジオで敵国人は持っているすべての写真機を指定された場所に納入せよという通達があり、写真機を持って指定場所に行くと、FBI(連邦捜査局)局員に連行されて取調べを受けた。駐在員事務所にあった書類一切がリストアップされていて、取り調べ後エリス島に送られることになった。日本の大会社の支店長をはじめ、出張員等のほとんどが収容されていた。ドイツ人は仲間に会うと「ハイル・ヒトラー」と唱和して、自分達は世界最優秀の国民だという気持ちにあふれていた。イタリア人は今更あわてても仕方がないという気持ちからか、ギャンブルに興じていた。 新聞、雑誌は自由に読め、新聞記事は軍艦の沈没数や艦船の名称まで、毎日の戦闘を載せて、戦況が日々読者に分かるようにしていた。零戦は華々しく報道され、活躍ぶりは正直に書かれていた。1942年(昭和17年)5月の終り頃から交換船の話が出たが、海軍軍人の取調べの結果、荷物の大部分が航空機関係の書物だったため、交換船には乗れないことになった。ところが米国側が乗員予定者を一人減らせば、日本側も一人減らさなければならないと野村吉三郎駐米特命全権大使がワシントンと交渉した結果、無事に第一次日米交換船に乗ることができた。 6月18日に中立国スウェーデンの客船グリップスホルム号でニューヨーク港を出帆し、7月2日にリオデジャネイロ着、7月22日にポルトガル領東アフリカ(現・モザンビーク)のロレンソ・マルケスに交換船の浅間丸とイタリア船コンテ・ヴェルデ号が入港し、26日に浅間丸に乗船した。グリップスホルム号ではデモクラティックだったが、浅間丸では一変して軍の支配下に船全体が置かれた重苦しい空気になった。野村大使、井口貞夫参事官及び大使館付の人が米国の航空機産業の実情を聞きたいということで、野村大使の部屋に招かれて、開戦後の米国の航空機生産に対する方針と現状を報告した。外交官は国際法上から持ち物を全部持ち帰ることができたので、フォーチューン等の雑誌を集めてもらい、記憶があいまいな所を明確にして、開戦後の動きを数日にわたり、駐在武官に対して説明した。ニューヨークを発ってから、62日間の長い航海を終えて8月20日に横浜港の岸壁に着いた。 1942年(昭和17年)9月に三菱重工業名古屋航空機製作所に戻った。所長は岡野保次郎、副所長は服部譲次、荘田泰蔵、吉田だった。陸、海軍の競合が露骨になり、陸軍関係と海軍関係の設計者を分離して1940年(昭和15年)に作られた設計部門組織は、2年後の9月に変更され、技術部長は河野文彦、技術部長付は大木喬之助、堀越二郎、本庄季郎、上條は技術部第二研究課長兼同課研究係長の役職になった。研究課には、第一及び第二研究課があり、第一研究課は空力研究課で、設計課で設計された航空機の模型を造って風洞実験を行い、第二研究課は設計の使用材料の強度の安全を確保するための材料試験が主な仕事で、材料の引張圧縮試験から、疲労試験、化学分析、光弾性試験等の様々な試験を行った。 米国から帰国後、三菱重工業本店の幹部、名古屋航空機製作所、陸海軍の将校をはじめ海軍の軍令部の次長以下大佐級軍人等、色々な方面から講演を求められた。警視庁の特高課にも呼ばれ、迷惑をかけることはしないから真実を話してほしいと言われた。米国の航空機生産では、工場による機種統一等、セクショナリズムを極力避けた国全体規模の大量生産を考え、設計も最も合理的な大量生産向きに改め、わずか半年のうちに年産12万5千機という生産を軌道に乗せたこと、また米国では日本及び日本語の研究を積極的に行っているのに対して、日本では英語を敵性語としてなるべく遠ざけるようにしている、米国は音楽を心の浮き立つような勇壮なものにしているが、日本の軍歌は悲しいものが多い、等々を各所で話した。 日本のラジオや新聞の報道は米国のように正確なものではなく、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の大敗北を隠し、国民が安心したり、喜んだりするように作られていたので、会社内部でもかなり楽観的な意見を吐く人が多かった。留学中米国の実情を技術者の生きた目で見てきた上條には、日本の直面する戦争の無謀さが直視できず、折を見てはあらゆる方面に呼びかけ、まず速やかに戦線を縮小するとともに、一日も早く戦争を終結すべしと力説して廻ったが、耳を貸す者はほとんどいなかった。設計課の堀越二郎は上條から「アメリカ軍の飛行機の天文学的数字ともいえるほどの増産計画と零戦を打倒するためいくつもの新戦闘機の開発が着々とすすめられているようすだ」と聞いて、冷水を浴びせられるような思いをした。堀越も米国留学経験があり、米国の工業力と航空技術を知り抜いていたが、それまでは半信半疑ながら緒戦での戦勝気分に同調していた。 第二研究課の課員は10-20代の血気盛んな若者がほとんどで、上條が課員に始終言っていた「君たちがいくら働いても、どうせ日本は勝てないからほどほどにやれ」という言葉に対する反発がかなり強かった。造兵廠から委託された、機銃や小銃の弾丸を被甲の材料を白銅からアルミに置き換え、これに銅メッキを施す研究に情熱を傾けていた課員の一人は、上條の「人間を直接殺害するような武器の研究はほどほどにして、最終的には不可能との報告をだすように」という指示に、技術者の良心として承知できない、と反駁して互いに大声で怒鳴り合ったこともあった。上條が意欲を燃やした唯一のテーマは搭乗員の命を守る防弾タンクの研究だった。 1944年(昭和19年)5月に堀越二郎の紹介で、堀越の親友だった山室宗忠の夫人の親戚にあたる、島倉幸子と中山武夫夫妻の媒酌で結婚した。12月7日、名古屋地方に紀伊半島南東沖を震源とするマグニチュード7・9の東南海地震が起き、名古屋航空機製作所では航空機の組み立て治具や床が破壊され、生産が全く途絶えたところに、13日に米軍の戦略爆撃機B-29の爆撃を集中的に受けて、工場の機能は完全に止まった。この攻撃に対して、防空壕だけで防備態勢は何も取られていなかった。
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