松本疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 08:11 UTC 版)
1945年(昭和20年)にかけて、名古屋空襲が激しさを増し大江工場は使えなくなり、2月に技術部(設計・研究・試作部門)を分離独立させ三菱重工第一製作所(河野文彦所長)とし、松本市を中心に分散疎開することになった。日本蚕糸株式会社(元・片倉製糸紡績)松本工場・試験場、陸軍松本飛行場格納庫、松本工業学校(現・長野県松本工業高等学校)、松本第二中学校(現・長野県松本県ヶ丘高等学校)、松本高等学校 (旧制)など多くの学校校舎を転用することとした。3月2日には米軍のB-29による里山辺空襲があり、爆弾4発が投下されている。4月から航空機工場は空襲の恐れがある松本市域から中山と里山辺に再疎開することになった。陸軍航空本部の指示で、ロケット戦闘機秋水の試作、零戦の後継機烈風等の部品製作のために、里山辺(林城山、向山等)及び中山の地下・半地下軍事工場の工事が4月1日から熊谷組の請負で、陸軍、三菱重工業、県内外の労働者、松本市周辺の住民の勤労奉仕、技術系の大学・専門学校の学生の学徒勤労動員、朝鮮人、中国人(中国兵捕虜)等、延べ約7000人(里山辺地区)を動員して行われた。 上條が課長を務めた第一製作所技術部第二研究課は日之出町の日本蚕糸株式会社の松本工場を使ったが、生産に役立つ仕事はほとんどすることができなかった。大町市木崎に家を借りて大糸線で松本に通った。烈風は堀越二郎技術部次長のもとで曽根嘉年第二設計課長を中心に若手エンジニアの手で設計され、終戦までに試作機7機、量産機1機が製作された。曽根は東条輝雄第一兼第二組立工場長とともに島内小宮の民家を借り、松本第二中学校に毎日自転車で通った。8月15日に小学校の校庭で昭和天皇の終戦の詔勅(玉音放送)をラジオで聞いた。上條は終戦後引き続き松本に残り、9月に妻が虫垂炎から腹膜炎になり大町病院で手術を受け、長女を胃腸炎で亡くした。その後社員の住宅に割り当てられた、浅間温泉の温泉旅館の梅の湯、次いで滝の湯、仙気の湯に移った。11月から日本蚕糸本館の臨時航空機工場整理事務所松本出張所で、人員の整理と研究課の試験器具の処分等の終戦処理に当たった。12月にはワシントン・ドキュメント・センター(WDC)から進駐軍の4人の将校が自動小銃やピストルで完全武装した護衛兵を伴って出張所に来所して、山辺のブドウ園の倉庫に分散保管していた三菱航空機の技術資料を調査し、ソ連に関する参考資料を押収した。翌年も出張所では毎日残務処理や航空機の歴史編纂の仕事に追われた。
※この「松本疎開」の解説は、「上條勉」の解説の一部です。
「松本疎開」を含む「上條勉」の記事については、「上條勉」の概要を参照ください。
- 松本疎開のページへのリンク