イギリスの影響力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:14 UTC 版)
イギリス人移住者の多くは海路でこの地にやってきて交易のための居留地を点々と作っていた。1778年、「北西航路」を捜索する最後の冒険航海の途上にあったジェームス・クックは、HMSレゾリューション号に乗りカリフォルニア州からベーリング海峡までの地図を作りながら北アメリカの西海岸沿いを北上した。旅の途中で、彼は現在クック湾として知られる巨大な入り江を発見したが、これは入江であり北西航路の入り口ではなかった。ちなみにクック湾の名は1794年、クックの名誉を称えるために彼の部下ジョージ・バンクーバーによって名づけられたものである。ベーリング海峡は越えるのが難しいと分かっていたが、リゾリューション号と僚船ディスカバリー号は何度も船で通り抜けようと挑戦した。結局彼らは北西航路通過をあきらめ、1779年、ハワイに帰港するためベーリング海峡を去った。 北西航路調査のためにアラスカを訪れているクックに対して、ロシア側は自分たちのアラスカにおける支配力を印象付けようとした。しかしクックはロシア側は単なるハンターと交易商人の寄せ集めにすぎないと考えていた。アラスカを去ったクックはハワイで死去するが、彼の部下たちは中国・広州へ向かい、そこでアラスカで買ったラッコの毛皮を高値で売りさばいた。クックの冒険によって、スペインの航跡をなぞるかのようにイギリスの航海に拍車がかかった。19世紀前半、ハドソン湾会社によって設立された三つの駐屯地は、ユーコン要塞、スティッキン川、そしてアラスカで唯一英米露の三国に支配されていた町ランゲルに置かれていた。
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