イギリス保護国期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:01 UTC 版)
19世紀後半、アフガニスタンは英露の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった。1839年から1842年にかけての第一次アングロ・アフガン戦争では、英領インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後、イギリス軍が大敗して撤退した。1878年から1881年に起こった第二次アングロ・アフガン戦争でもイギリス領インド帝国駐留のイギリス軍が、アフガニスタンに侵攻した後に駐留し、自立支配を認めるが外交権はイギリスに委ねる条件で撤退した。 シール・アリー・ハーン在位時に起きた第二次アフガン戦争(1878年 - 1880年)のカンダハールの戦い(英語版)でアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、ガンダマク条約(英語版)でその保護国となった。英露はアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。 1885年、イギリスとロシア帝国との間でパンジェ紛争(英語版)が起きる。イギリスは朝鮮半島沖の巨文島で巨文島事件を起こし、ロシアを牽制した。 1893年、パキスタンとの国境線デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年、チトラル遠征(英語版)。
※この「イギリス保護国期」の解説は、「アフガニスタン」の解説の一部です。
「イギリス保護国期」を含む「アフガニスタン」の記事については、「アフガニスタン」の概要を参照ください。
イギリス保護国期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 08:00 UTC 版)
「アフガニスタンの歴史」の記事における「イギリス保護国期」の解説
ドースト・ムハンマドの死後、息子のシェール・アリが王位を継いだ。クリミア戦争以後、中央アジアに版図を広げていたロシアは1878年、イギリスの影響力を排除することを目的にカーブルに外交使節団を送り込んだ。それを知ったイギリス政府とインド総督リットンはカーブルにイギリスの大使館の設置を要求したが、回答がなかったことからアフガニスタンに対し軍隊の進駐を決める(第二次アフガン戦争)。 当初はさしたる抵抗もなく駐留が続いたものの、1879年にカーブルで反乱が起き、1880年にカンダハール郊外でおきたマイワンドの戦い(英語版)ではイギリス軍が大敗した。その頃イギリスでは自由党のグラッドストン内閣が成立、アフガニスタンへの積極的な介入を推進していたリットン総督を更迭し、新しくリポン総督を任命し撤退を指示した。 その際にイギリス側は亡命していたアブドゥル・ラーマン・ハーンを擁立することで反乱の沈静化を図り、アフガニスタン側はイギリス以外の国との政治的な関係を結ばないことを条件に、イギリスからの内政干渉を受けないことの約束を取り付け、事実上イギリスの保護国となった。 1897年にアフガニスタン国王アブドゥル・ラーマンとイギリス領インド帝国外相モーティマー・デュアランド(英語版)との間で国境線が画定される(デュアランド・ライン)。アフガニスタン側は暫定的なものと解釈していたが改定されることはなく、パシュトゥーン人の歴史と分布を無視した人為的な分断として、現在のアフガニスタン・パキスタン国境線につながり多くの問題を引き起こす元となった。 1907年には英露協商が成立した。ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗するために、イギリスとロシアにおいてペルシア(イラン)、アフガニスタン、チベットでの勢力範囲を定めたもので、アフガニスタンについてはロシアへの軍事的拠点としない条件でイギリスが支配することになった。
※この「イギリス保護国期」の解説は、「アフガニスタンの歴史」の解説の一部です。
「イギリス保護国期」を含む「アフガニスタンの歴史」の記事については、「アフガニスタンの歴史」の概要を参照ください。
- イギリス保護国期のページへのリンク