イギリス併合後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 10:21 UTC 版)
ダルフージーは併合後、アワドが穏やかに声明を発し、主権が藩王からイギリスに移ったことを宣言した。そして、イギリス領に直轄化されたことにより、アワド藩王国領はアワド州となり、行政・司法・徴税を自由に行えるようになった。 藩王国の行政機構と軍隊が解体されたことにより、何千人もの貴族、役人、軍の将校が職業を失った。それらの従者や兵士も同様に職業を失い、ほとんどの農民の世帯に失業問題が襲いかかる結果となった。また、藩王国の宮廷や貴族を顧客にしていた商人や手工業者も生活する術を失った。 イギリスはアワドを直轄化するに当たり、藩王国内のタールクダールの土地を没収した。その数は大小合わせて21,000人に上り、彼らは失った土地の回復を求めるようになって、イギリスにとっては統治の上で脅威となった。 さらに、一般民衆はアワド藩王国が統治した時代よりも、さらに高額の地租をイギリスから課せられた。地租以外にも食料品、住居、渡し船、阿片、司法など多岐にわたって新たな税が課せられた。彼らにとってはむしろ、藩王国統治時代の方がイギリス統治に比べてはるかにましであった。 アワドからはシパーヒー(インド人傭兵、セポイとも)が数多く出ており、事実ベンガル管区のシパーヒーの3分の1はアワドの出身者で占められていた。その数はおよそ75,000人に及び、アワド藩王国の理不尽な併合に関しては彼らの大半を激怒させた。19世紀、インドはイギリスの植民地と化し、シパーヒーはインド各地の征服活動に従事していたが、それでも国家や地域に対するナショナリティまでは失われていなかった。藩王国の併合はイギリス軍内部にも不満を持たせる結果となってしまった。 1857年5月10日、シパーヒーがデリー近郊のメーラトの町で反乱を起こし、翌11日にデリーに入城してムガル帝国の統治復活を宣言した。この「インド大反乱」が起きると、イギリスによる前年の併合に不満だったアワドのシパーヒーもすぐさま呼応し、アワドの民衆、貴族、タールクダールも巻き込み、ラクナウをはじめアワドは大反乱における最大の激戦地となった。
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