イギリス併合時代(1801年 - 1922年)
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「アイルランドの歴史」の記事における「イギリス併合時代(1801年 - 1922年)」の解説
主要記事:イギリス併合時代のアイルランド 1801年、前年に可決された連合法を受けて、アイルランド王国はグレートブリテン王国(1707年にイングランド王国とスコットランド王国が連合して成立)へ併合され、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が発足した。連合法可決前にアイルランドへの譲歩として約束されていたカトリック教徒やプレスビテリアンへの政治的差別解消は、当時のイギリス国王ジョージ3世の反対などもあり実現が遅れた。結局、アイルランドの地位向上はナポレオン戦争の終結後となった。「カトリック教徒協会」を率いたダニエル・オコンネルらの尽力によって1828年に審査法が廃止され、1829年にカトリック教徒解放法が定められた。イギリスに完全に併合されたとはいっても、実際はそれ以前からイギリス国王がアイルランド国王を兼ねていたため、植民地であることには変わりなかったが、形式上連合王国の一員となったことで更なるイギリスへの同化圧力が加えられることになった。 1845年から1849年にかけてはアイルランドをジャガイモ飢饉が襲い、アイルランドからのアメリカ合衆国などへの移民を促進させる原因となった。飢饉以前に800万人を数えた人口は、1911年には410万人にまで減少している。 アイルランド語の使用は19世紀に急激に減少した。これは飢饉の影響に加え、イギリスによる国民学校(national school)の設立、当時のアイルランド人政治家による排斥などが影響している。代わって用いられるようになった英語は、イングランド本土の英語と文法的に相違があり、一種の方言と見なされている。これは、古英語に由来する文法の柔軟性が特徴的なアイルランド英語(ハイバーノ・イングリッシュ)として、20世紀前半のイギリス文学界にも一定の影響を与えた。J・M・シング、ジョージ・バーナード・ショー、ショーン・オケイシー、オスカー・ワイルドなどはその代表である。 1870年ごろにはアイルランド自治が再び取り上げられるようになった。政治活動を指揮したのはプロテスタントの大地主であったチャールズ・スチュワート・パーネルと彼が作り上げた自治同盟である。イギリスの首相ウィリアム・グラッドストンはパーネルと協力して1886年と1893年の2度にわたり自治法導入を図ったが、いずれも上院での反対により失敗に終わった。アイルランドにおけるパーネルの絶大な影響力は、彼が友人の妻と内縁の関係にあったことが発覚したことにより終わりを告げた。現在では「王冠なきアイルランド国王」と呼ばれるなど、アイルランドで最も尊敬を集める政治家の一人となっている。 これらの自治権付与への流れのなかで、アイルランド民族主義者(ナショナリスト)とイギリスへの帰属を求めるユニオニストの対立が激化していった。アイルランド島全体では圧倒的に優勢を占めていたナショナリスト・カトリック教徒が要求する自治に対し、北東部のアルスター6県で多数を占めていたユニオニスト・国教徒は自らの経済的、政治的特権が奪われることを恐れていた。 ナショナリスト中の過激派はイギリスから実力で独立を勝ち取ろうと目論んでいた。1803年にはロバート・エメットが率いる共和主義者が、1848年にはトーマス・フランシス・マハーなどのアイルランド青年団が反乱を起こした。そして1868年には後のIRAの前身となるアイルランド共和同盟(IRB)の暴動が発生した。これらの事件はみな鎮圧されたが、暴力的政治活動という伝統は以後のアイルランド史にも引き継がれることになる。 19世紀後半にはアイルランドの土地改革が図られた。マイケル・デイヴィットの率いる土地連盟は1870年頃から地主の所有地を分割し、小作農に分け与える政策を押し進めた。農村の状況が改善していったにもかかわらず、アイルランドの首都ダブリンでは当時のイギリス帝国最悪とも言われた貧富の差が発生していた。モントと呼ばれる治安の悪い歓楽街は、ジェイムズ・ジョイスを始めとする多くの小説の舞台となっている。
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