藩王国の併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 16:02 UTC 版)
「ラクシュミー・バーイー」の記事における「藩王国の併合」の解説
生年は定かではなく、1835年説の他に、1820年代後半(1828年頃)説もある。 没落したマラーター貴族の出身とされ、幼い頃にはマラーター同盟の元宰相バージー・ラーオ2世に庇護されていたというが、はっきりしない。少女時代より剣術を嗜み乗馬を好んだというが、これも伝説の域を出ない。 彼女がはっきりとした記録に現れるようになるのは、1842年にジャーンシーの藩王ガンガーダル・ラーオに嫁いでからである。ジャーンシー藩王国は、古来交通の要衝として繁栄していたマラーター同盟の小王国で、イギリスとの間に軍事保護条約を結び、藩王国となっていた。 1851年、王との間には一子をもうけたがすぐに病没してしまい、王は1853年以降から重病となり、彼女は養子を迎えると共に藩王国の存続を図るべく奔走したが、インド総督ダルフージーは、後継者のいない藩王国はイギリス東インド会社に併合してしまう、「失権の原理」(いわば末期養子を認めない無嗣改易)という藩王国併合政策を推進したため、その尽力もむなしく、イギリス側は全く取り合わなかった。 同年12月、王が病没すると、1854年2月27日にジャーンシー藩王国はイギリスに併合されてしまい、ラクシュミー・バーイーが城の接収時に告げた拒絶の言葉である、 「 「メーレー・ジャーンシー・ナヒン・デーンゲー(मेरे झाँसी नहीं देंगे/我がジャーンシーは決して放棄しない)」 」 は今日でも良く知られている。
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