藩校時代
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1821年(文政4年)、伊勢国津藩の第10代藩主藤堂高兌が藩校である有造館の支校として建築させた。上野城の城址にある。 「崇廣堂」の名は『書経』周官の「功崇惟志、業廣惟勤」に由来している。扁額は上杉鷹山の筆。 剣術や槍術などの道場が併設されていたことも知られており、「御学館内絵図」(伊賀市上野図書館蔵)の崇広堂見取図、『伊賀市史 通史編』にも確認できる。道場では戸波流(新陰流)や若山流(神影自弁流)、代々藤堂家に仕えた剣術指南役の津田家が教えた新陰流の道場の場所も記載がある。
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藩校時代
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「福岡県立修猷館高等学校」の記事における「藩校時代」の解説
1783年(天明3年)6月24日(旧暦) - 福岡藩第9代藩主黒田斉隆(江戸幕府第11代将軍徳川家斉の実弟)が藩儒竹田定良、儒医亀井南冥に藩校創建を命じる 1784年(天明4年)2月1日(旧暦) - 福岡藩の藩校として甘棠館(西学問稽古所)開館 初代館長は亀井南冥 1784年(天明4年)2月6日(旧暦) - 同じく福岡藩の藩校として修猷館(東学問稽古所)開館。初代館長は竹田定良 1798年(寛政10年)1月29日(旧暦) - 唐人町より発した大火により甘棠館焼失。生徒は皆修猷館に編入し以後福岡藩の藩校は修猷館のみとなる。
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