藩校・成章館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 18:49 UTC 版)
藩校として1810年(文化7年)に藩の儒医萱生玄淳によって成章館が開かれた。敷地は、現在の田原中部小学校に相当する。 校名は萱生玄淳の撰名と思われ、『論語』公冶長篇に「子、陳に在りて日わく、帰らんか。吾が党の小子、狂簡、斐然として章を成す(斐然成章)。之を裁する所以を知らざるなり。」とあり、孔子が「故国魯に帰ろうや、在郷の門人たちは世事には疎略であるが志操高遠で文は美しく論理成就し、道を伝える器である。どうしてこれを糺したち切ることができようか。彼等は後学として育て、もって後世に道を伝えよう。」と述べたことを用いて、藩校成章館は朴訥な田舎の生徒であるが道を後進に育て行う学堂であるという意味が込められている。 尾張・三河にあった成章館などの藩校はそれぞれ自藩藩士の子弟をおもな対象として教育活動を展開した。成章館は、藩主三宅家と洋学者の渡辺崋山、鈴木春山、村上範致らの活動によって世に注目された。創立当初、漢籍の素読と武術をおもな教育内容としていたが、1834年(天保2年)正月鈴木春山らを招いて、洋学を教えさせ、村上範致により西洋兵術の教授を実施した。1871年(明治4年)、廃藩置県にともない、62年間で自然廃校となった。 のち、1901年(明治34年)に、近代教育機関として成章館が再興され、変遷を経て1948年(昭和23年)に愛知県立成章高等学校となっている。
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