高島流砲術を伝える
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天保12年(1841年)3月、範致は江川らとともに高島秋帆に入門、西洋流砲術を学び、同年5月に行われた徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区)で行われた演習に参加した。これに先立って崋山は蛮社の獄のために失脚して、田原に蟄居していたが、範致の入門を心から喜んでいる旨の書簡が残っている。崋山はこの年の10月に自害するが、5通残した遺書のうち一通は範致に宛てたものであった。翌1842年夏には長崎にあった高島秋帆を訪ねて再び師事し、免許皆伝を得た。同年冬に帰国して田原で鉄身の大砲と砲弾を鋳造、翌年正月には藩主三宅康直の前で高島流砲術を披露し、田原藩の砲術に高島流を導入していくとともに、藩校成章館で多くの藩士を教育した。加えて、幕府の海防強化令を踏まえ、台場の築造や大砲鋳造を試みた。 またこの間、師の高島秋帆が幕府江戸町奉行鳥居耀蔵の起こした疑獄事件により蟄居の身となったこともあり、範致の砲術を知った諸藩の藩士が田原の範致邸を訪れ、彼に師事した。範致の残した門人帳によると、田原で村上の門下に入った他藩士はおよそ40人、所属藩は12藩となっている。範致が仕える田原藩は非常に貧しく、さらに質素を旨とする神道無念流の教育を受けているために、村上家の出す食事があまりにも質素で、美食になれた多くの大藩の師弟が辟易したとの話も残る。 嘉永3(1850年)には田原藩軍制を西洋式に変更、農兵部隊を組織した。安政3年(1856年)には西洋式帆船の建造に着手し、江川英敏(英龍の子)や先行して建造していた長州藩などの協力の下、翌々年に竣工させた。文久2年(1862年)には幕府から講武所の高島流砲術の世話役に請われて就任し、江戸に出て幕臣や各藩の藩士に砲術を指南した。
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