高島流砲術を伝えるとは? わかりやすく解説

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高島流砲術を伝える

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:45 UTC 版)

村上範致」の記事における「高島流砲術を伝える」の解説

天保12年1841年3月、範致は江川とともに高島秋帆入門西洋砲術学び同年5月行われた徳丸ヶ原現在の東京都板橋区)で行われた演習参加した。これに先立って崋山蛮社の獄のために失脚して田原蟄居していたが、範致の入門心から喜んでいる旨の書簡残っている。崋山この年10月自害するが、5通残した遺書のうち一通は範致に宛てたものであった。翌1842年夏には長崎にあった高島秋帆訪ねて再び師事し免許皆伝得た同年冬に帰国して田原身の大砲砲弾鋳造翌年正月には藩主三宅康直の前で高島流砲術披露し田原藩砲術高島流を導入していくとともに藩校成章館多く藩士教育した加えて幕府海防強化令を踏まえ台場築造大砲鋳造試みた。 またこの間、師の高島秋帆幕府江戸町奉行鳥居耀蔵起こした疑獄事件により蟄居の身となったこともあり、範致の砲術知った諸藩藩士田原の範致邸を訪れ彼に師事した。範致の残した門人帳によると、田原村上門下入った藩士はおよそ40人、所属藩は12となっている。範致が仕え田原藩は非常に貧しく、さらに質素旨とする神道無念流教育受けているために、村上家の出す食事あまりにも質素で、美食になれた多く大藩師弟辟易したとの話も残る。 嘉永3(1850年)には田原藩軍制西洋式変更農兵部隊組織した安政3年1856年)には西洋式帆船建造着手し江川英敏(英龍の子)や先行して建造していた長州藩などの協力の下、翌々年竣工させた。文久2年1862年)には幕府から講武所高島流砲術世話役請われ就任し江戸出て幕臣各藩藩士砲術指南した。

※この「高島流砲術を伝える」の解説は、「村上範致」の解説の一部です。
「高島流砲術を伝える」を含む「村上範致」の記事については、「村上範致」の概要を参照ください。

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