藩校:修身堂
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8代藩主分部光実は、天明5年(1785年)に藩校「修身堂」を創設し、鸞渓を初代の文芸奉行(藩校の長)に任じた。鸞渓の死後は、その子の中村守篤が学頭となり、修身堂では古学の教授が行われた。 板倉氏から養子として入った11代藩主分部光貞は、安政年間に川田甕江(川田剛)を賓師の礼をもって招き、藩儒とした。甕江は古賀茶渓・大橋訥庵に就いて朱子学を修めた人物で、修身堂の教育も朱子学派に転じた。甕江は光貞の命を受け『中江藤樹先生年譜』の編纂にもあたっており、藤樹書院で学んだ人物が修身堂の教員になるなど(鸞渓とともに修身堂設立に尽力した磯野義隆など)、両校の間には交流や影響も見られるという。『日本教育史資料』によれば、修身堂では漢学(儒学)のほかに算術科・筆道科・習礼科が設けられ、13歳未満の生徒には手島堵庵の著述を誦読させていた。修身堂は大溝藩の廃藩を受け、明治4年(1871年)6月30日付で廃校となった。
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