藩校:修身堂とは? わかりやすく解説

藩校:修身堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 03:16 UTC 版)

大溝藩」の記事における「藩校:修身堂」の解説

8代藩主分部光実は、天明5年1785年)に藩校修身堂」を創設し渓を初代文芸奉行藩校の長)に任じた渓の死後は、その子中村守篤が学頭となり、修身堂では古学教授が行われた。 板倉氏から養子として入った11藩主分部光貞は、安政年間川田甕江川田剛)を賓師の礼をもって招き藩儒とした。甕江は古賀茶渓大橋訥庵に就いて朱子学修めた人物で、修身堂の教育朱子学派転じた。甕江は光貞の命を受け『中江藤樹先生年譜』の編纂にもあたっており、藤樹書院学んだ人物修身堂の教員になるなど(とともに修身設立尽力した磯野義隆など)、両校の間には交流影響見られるという。『日本教育史資料によれば修身堂では漢学儒学)のほかに算術科・筆道科・習礼科が設けられ13歳未満生徒には手島堵庵著述誦読させていた。修身堂は大溝藩廃藩を受け、明治4年1871年6月30日付で廃校となった

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