イギリス側の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 06:51 UTC 版)
当初、イギリス側では、ドイツの上陸作戦については、海軍が圧倒的に優勢であったため、懐疑的な意見が多かった。しかし、首相になったチャーチルの強い主張もあり、徴兵適齢者を除外した無給ボランティアの郷土防衛隊(ホームガード)が、1940年5月から組織されることになった。郷土防衛隊への応募は強かったが、ダンケルクでの大敗で、引き上げてきた陸軍部隊は装備を大量に失っていて、本土の正規軍の装備もままならない状態であったので、郷土防衛隊に提供される装備は、貧弱であった。 陸軍は、9月には編成表上で23個歩兵師団と2個機甲師団、4個英連邦諸国歩兵師団を持っていたが、それらの半数近くは、人員と装備の両方で充足率が半分以下レベルで練度が低く、フランス戦で多数の下士官、将校を失っていたので、新兵の訓練にも問題を抱えていた。 空軍は、チェーン・ホームと呼ばれるレーダーを用いた早期警戒システムを南部に展開済で、これは、当時、技術的にもっとも進んだものであった。ドイツ軍は、ダンケルクを占領した際に、英本土から発生する強力な電波の存在に気がついたが、チェーン・ホームの能力など詳細については、不明なままで、航空戦に突入することになった。 海軍は、本国艦隊として、戦艦3、巡洋戦艦2、空母2、重巡3、軽巡14、駆逐艦89、潜水艦26などを保有していたが、それらの多くはスカパ・フロー、ロサイスなどスコットランド側に配備されていた。ドイツ軍が上陸を計画していた南部には、プリマスに戦艦リベンジ、軽巡2、駆逐艦6、ポーツマスに駆逐艦8,潜水艦2,ドーバーに駆逐艦3などが配備されていた。 7月になると、空軍の写真偵察により、大陸の北海沿岸諸港で、ドイツによる大量の艦船の集積が観測されたので、上陸作戦は現実の問題として認識されるようになった。参謀本部は、時期についてはドイツ側と同じく、海洋気象条件から9月末までが危険であるとしたが、上陸地点については、英仏海峡側なのか北海側なのか推定できなかった。ブレッチリー・パークでのドイツの暗号通信を解読する作業は、既に始まっていたが、当時は、ほとんど解読出来ていなかった。 7月から、東部と南部の上陸作戦適地の海浜、約40箇所で、防衛設備や海中障害物などの工事がはじまったが、工事進捗は低調で、9月段階では、防備はあっても軽微なレベルに留まっていた。 ドイツ側で、イギリス側の防衛状況情報を収集するのは、アプヴェーア(国防軍情報部)と空軍偵察機の役目であったが、アプヴェーアによるスパイ潜入は、ほとんど失敗して有用な情報を得ることは出来なかった。空軍偵察機による写真偵察は、イギリス側のそれと比べると体系だったものではなく、ドイツ側では、上陸予定地点の防衛状況については、よく分かっていなかった。
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