アプヴェーア
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アプヴェーア(ドイツ語: Abwehr、「防衛」「防諜の意)は、ドイツ軍において戦間期の1921年から第二次世界大戦後期の1944年5月まで存在した情報機関(諜報機関)である。最盛期には1万6000人以上の要員を擁した。日本語ではアプヴェァ[1]、アプヴェールともカナ表記される。1938年2月4日以降は、Amt Ausland/Abwehr im Oberkommando der Wehrmacht(国防軍情報部海外電信調査課・外国課)となった。歴代部長の中で、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に面従腹背の姿勢を取っていたことで特に有名(詳細は後述)。
国防軍情報部
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「ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ」の記事における「国防軍情報部」の解説
第二次世界大戦が勃発すると、モルトケはカイザー・ヴィルヘルム外国公法・国際法研究所に勤務し、1939年9月6日からはヴィルヘルム・カナリス率いるドイツ国防軍防諜部に勤務した。モルトケの任務は、在外公館の駐在武官や外国の新聞から得られる軍事・政治的情報を集め、国防軍各部署に報じることであった。また、モルトケは外務省と国防軍最高司令部との連絡官を務め、戦時国際法の問題を担当した。 国防軍情報部での勤務中、モルトケは反ヒトラー派のカナリスやハンス・オスターの援護を得ていた。彼は占領下のヨーロッパ各地を視察した際にドイツ軍による現地住民への虐待行為を批判し、ジュネーヴ条約を遵守するように訴えた。また、独ソ戦の際にはロシア人捕虜に対してジュネーヴ条約・ハーグ陸戦条約を適用するべきと訴えた報告書を提出したが、ソ連が条約を否認していることを理由に却下された。モルトケの訴えに対し、ヴィルヘルム・カイテルは「過ぎ去った時代の騎士道精神の遺物」と嘲笑した。この他に、各地で虐殺されるユダヤ人の保護のために、彼らの「国外追放」を提案している。 1943年にイスタンブールを二度訪れている。表向きの理由はトルコに拿捕されたドイツ商船の解放交渉だったが、実際には反ナチ運動のためにOSSやドイツ人難民、現地の国防軍情報部員、駐トルコ大使フランツ・フォン・パーペンと接触していた。彼らの作成した文書はフランクリン・ルーズベルトに届けられたが、ヘンリー・モーゲンソウらルーズベルトの側近たちが文書の信頼性に疑問を呈したため受け入れられなかった。
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