国防軍情報部の指揮権喪失 - 前線へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/05 08:49 UTC 版)
「ブランデンブルク (特殊部隊)」の記事における「国防軍情報部の指揮権喪失 - 前線へ」の解説
カナリスおよび国防軍情報部は当初からヴァルター・シェレンベルク率いる親衛隊情報部(SD)の厳重な監視を受けていた。 国防軍情報部のナチスに対する反感は1944年に頂点に達した。カナリスを含む数名の国防軍情報部首脳は1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に加担したとされ、ブランデンブルクの指揮権はSDに移譲となった。1944年9月、特殊作戦部隊としての師団はもはや必要ないと判断され、自動車化歩兵および戦車連隊の装備をうけブランデンブルク装甲擲弾兵師団(Panzer-Grenadier-Division Brandenburg)となり、東部戦線に投入された。 フェルカーザム男爵を含む1,800名はオットー・スコルツェニーSS大佐のSS駆逐戦隊(SS-Jagdverbände)に転属させられ、終戦まで特殊部隊として作戦を続けた。 師団の残りは通常の作戦任務に就いた。これにより士気の低下を招いたが、ブランデンブルクはそれでもエリート部隊と見なされ、1940〜41年に訓練をともにしたグロースドイッチュラント装甲師団に配属された。ブランデンブルクは東部戦線のバルト海から東プロイセンへの撤退戦に投入され善戦した。 ブランデンブルクはグロースドイッチュラント師団に従いフェリーに乗ってピラウへ撤退するまで、メーメルの戦い(英語版)に参加した。師団はピラウ付近での激戦でほとんど壊滅し、何人かの生存者は5月にシュレースヴィヒ=ホルシュタインでイギリス軍に投降したが、多くの隊員は捜索から逃れるための高いスキルを持っていたため、たやすく姿を消した。
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