国防軍最高司令部の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:52 UTC 版)
「ナチス・ドイツの軍事」の記事における「国防軍最高司令部の設置」の解説
「ホスバッハ覚書」および「ブロンベルク罷免事件」も参照 四カ年計画の進展によってドイツの原料供給はさらに逼迫し、海軍が新造艦船の製作を企業に求めても、原料逼迫のために拒絶される事例も起こるほどであった。しかも四カ年計画責任者ゲーリングは、自ら総司令官を務める空軍に重点的な軍需物資の配分を行った。これを不満とする陸軍総司令官フリッチュと海軍総司令官エーリヒ・レーダー、ブロンベルク戦争相はヒトラーの調停を求めた。 1937年11月5日、総統官邸において各軍司令官とブロンベルク、そして外相コンスタンティン・フォン・ノイラート、そしてヒトラーが出席した秘密会議が行われた。ヒトラーはこの席でチェコスロバキアもしくはオーストリア獲得のため戦争を起こすと述べた。ヒトラーが想定していた開戦時期は1943年から1945年にかけての間であり、この時期を過ぎればドイツの食糧備蓄が逼迫するなどの理由で次第にドイツが不利になり、「行動に出る以外の選択肢は残されていない」というものであった。また好機が訪れればそれ以前の開戦もあり得るとしていた ブロンベルク戦争相とフリッチュ陸軍総司令官は、英仏の介入、チェコスロバキア国境要塞の堅固さをあげて戦争が困難であるという認識を示した。1938年1月、ブロンベルクとフリッチュに対するスキャンダルが相次いで発生し、二人は辞任を余儀なくされた(ブロンベルク罷免事件)。この事件はヒトラー自身は事前に承知していなかったが、ヒトラーはこの機をとらえて軍部の粛清を開始した。ブロンベルクの進言に従って戦争省を廃止し、国防軍最高司令部を新設した。最高司令部の総長にはヴィルヘルム・カイテルが就任したが、彼はヒトラーの追従者にすぎなかった。ルートヴィヒ・ベック陸軍参謀総長など多くの将軍も更迭・辞職し、国防軍の抵抗力は大きく削減された。外交面でもノイラート外相らが更迭され、リッベントロップが新たな外相となって新たな同盟政策をとることになった。 さらに治安権力を握った親衛隊の影響力増大もあり、国防軍はその武装化に反対することができなくなりつつあった。1938年8月17日には親衛隊髑髏部隊が正式に武装を認められ、特務部隊とともに「戦時軍の枠内」として活動することが明確化された。1939年5月18日には特務部隊に師団編成が認められ、実質的な「第四軍」となった。こうして「武装親衛隊(ドイツ語: Waffen-SS)」が成立した が国防軍では彼らをパレードにしか使えない「アスファルト兵士」と呼んで軽蔑した。また武装親衛隊の兵員獲得の動きは徴兵にも支障を来し、しばしば抗争が発生した。 ルートヴィヒ・ベックなど上層部に残っていた反ナチ派もミュンヘン会談の成功後は姿を消し、第二次世界大戦開戦直前の段階で、国防軍首脳はヒトラーの政策にほとんど完全に同意していた。
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