シール・アリー・ハーンとは? わかりやすく解説

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シール・アリー・ハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/30 14:21 UTC 版)

シール・アリー・ハーン
アフガニスタン首長
在位 1863年 - 1866年
1868年 - 1878年12月

出生 1825年
死去 1879年2月21日
マザーリシャリーフ
子女 ムハンマド・ヤアクーブ・ハーン
アイユーブ・ハーン
王朝 バーラクザイ朝
父親 ドースト・ムハンマド・ハーン
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シール・アリー・ハーン (Sher_Ali_Khan、1825年 - 1879年2月21日[1])は、アフガニスタン首長(在位:1863年 - 1866年1868年 - 1878年12月)。ドースト・ムハンマド・ハーンの息子。シェール・アリー[1][2]とも表記される。

生涯

王位継承争い

父により後継に選定され、1863年に王位に就いた。しかし、2人の異母兄アフザルとアズィームとの間に王位継承をめぐる争いが生じた[1]。1864年にアフザルやアズィームらは反乱を起こし、1866年にシール・アリーは王位を奪われた。

アフザル(在位:1866年 - 1867年10月)は1867年に死去し、アズィーム(在位:1867年 - 1868年)が跡を継いだ。これに対し、シール・アリーも軍事力を回復。1869年に長男のヤアクーブ・ハーンの援助を受けてカーブルに入城した[1]。王位継承争いに敗れたアズィームはイランに、またアフザルの子アブドゥッラフマーン・ハーンはロシア領トルキスタンに、それぞれ亡命した[1]

第二次アフガン戦争

1868年から1873年にかけ、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドの三ハーン国がロシアに征服されると、シール・アリーはイギリスとの友好関係を強化しようとする。しかし、イギリスからは満足な回答を得られなかった。

1878年に露土戦争が勃発すると、カーブルで反英宣伝を行った[1]英領インド当局はネヴィル・ボウルズ・チェンバレン英語版を団長とする使節団を派遣しようとしたが、シール・アリーは入国を拒否[1]。これにより第二次アフガン戦争(1878年 - 1881年)が勃発した[1]

シール・アリーはイギリス軍に敗れた。彼はカブール占領の前日に退位し、ヤアクーブ・ハーン英語版を摂政として残して、自らはバクトリアに逃れ、ロシアの援助を要請したが拒絶される。行動を制限されて帰国し[1]、1879年2月21日、マザーリシャリーフで死去した[3]

ヤアクーブ・ハーンは、5月15日ガンダマク条約英語版を結び、第二次アフガン戦争は終結した。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 「シェール・アリー」『岩波世界人名事典』上、p.1147
  2. ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326
  3. ^ 「シェール・アリー」『岩波世界人名事典』上、p.1147によれば、死没地はバルフ近郊。

外部リンク

先代
ドースト・ムハンマド・ハーン
アフガニスタン首長
1863年 - 1866年
次代
ムハンマド・アフザル・ハーン
先代
ムハンマド・アーザム・ハーン
アフガニスタン首長
1868年 - 1878年
次代
ムハンマド・ヤアクーブ・ハーン




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