石油国有化政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 11:52 UTC 版)
「モハンマド・モサッデク」の記事における「石油国有化政策」の解説
第二次世界大戦においてイランは、北はソ連、南はイギリスに占領され(→イラン進駐)、戦後もイギリスの影響力の強い政権が続き、アングロ・イラニアン石油会社(英語版)(AIOC)はアバダンの石油を独占し利益を独占、イラン国内に石油による利潤はほとんどもたらされない状態が続いていた。そのような中、以前から存在した石油生産の国有化案を民族主義者モサッデクは「石油国有化政策」へとつなげていった。 イギリスは懐柔案として「アングロ・イラニアン石油会社の利益をイギリスとイランが半々ずつ受け取る」という石油協定の改正を提案するが、モサッデクはこれをイギリスのイラン支配継続の意図をみて断固として反対した。石油国有化はイランの完全な主権回復を主張する運動のシンボルとして国民の支持を得て盛り上がりを増し、1951年の首相就任後に石油国有化法を可決させてアングロ・イラニアン石油会社から石油利権を取り戻し(イギリスのイラン支配の終結)、石油産業を国有化する。 それによりイギリス、その後ろ盾となるアメリカを始めとした西側諸国から猛反発を受けたことから、対抗するためソ連に接近。1953年にはソ連・イラン合同委員会をつくり、ソ連と関係を深めていった。このことは西側諸国にイラン共産化の危機感を抱かせたが、実際にはモサッデクは共産化を警戒し、またソ連もモサッデクを「ブルジョワ」と警戒し、積極的に受け入れようとしていなかった。
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