イギリスの抗議
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この方針を受け取った第21軍集団のバーナード・モントゴメリー元帥は本国に連絡し、アラン・ブルーク陸軍参謀総長からウィンストン・チャーチル首相に伝えられた。イギリス側はアイゼンハワー元帥が合同参謀本部(en)の頭越しにスターリンに打電したこと、ベルリンの放棄の方針、合意無しに方針を転換したことに激怒した。抗議のために訪れたブルーク参謀総長を見たマーシャル参謀総長は「私はゾッとした。ブルークは本気で怒っている。勝利を目前にしたこの時期に、米英史上で最悪の対立が発生するとは予想外であり、私は何もかも投げ出したい気分におそわれた」と記録している。3月29日、ブルーク参謀総長は統合参謀本部に「確度と根拠が低い国家要塞情報」を戦略決定の要素とみなす必要はないと、アイゼンハワー元帥戦略を批判した電文を送った。またこの日、チャーチル首相はアイゼンハワー元帥に直々に電話したが、「ベルリンはもはや重要な軍事目標ではありません」という返答を得たのみであった。 3月31日、チャーチル首相はアイゼンハワー元帥に電報を送り、ベルリン攻略の重要性を訴えた。その要旨は以下の通り。 「ベルリンを彼らにまかせれば、彼ら(ソ連)に、自分たちにはなんでもできるという自信を強化させるだけであろう。」 「ベルリンにドイツ国旗がひるがえっている」かぎり、ドイツ政府は何度でも疎開を行うであろうし、ドイツ国民も戦い続ける。 全ドイツの抵抗を打破するにはベルリン攻略以外になく、これまでの戦略を維持するべきである。 しかしまもなく、アメリカ統合参謀本部からブルーク参謀総長の電報への返事が届いた。統合参謀本部からの電報はアイゼンハワー元帥の見解を支持し、ブルーク参謀総長の見解を一蹴するものであった。4月1日、チャーチルはルーズベルト大統領に親電を送り、方針の転換を求めた。しかしすでに病状が悪化していたルーズベルトは電報を見ず、返事を出したのはマーシャル参謀総長であったため、返電はアイゼンハワー元帥の見解を支持するものであった。 同じ頃、ソ連側からも「ベルリンはかつての戦略的重要性を喪失している」という内容の電報が届いた。アイゼンハワー元帥は自身の見解がソ連にも理解されていると喜んだが、これは米英側より先にベルリンを攻略する方針を持つスターリンが、米英側を「油断」させる意図で送ったものだった。 ここにいたってイギリス側も方針に固執することは出来ず、ベルリン回避は米英軍の既定方針となった。米英軍の東進はエルベ川までとなり、ベルリン攻略はソ連軍が行うことになった。4月15日、最高司令官命令によりエルベ川に到着した米英軍は南北に進撃を開始し、翌16日にはソ連軍によるベルリン攻撃が始まった(ベルリンの戦い)。
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