イギリスの敗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 02:05 UTC 版)
モンカルムは、イギリス軍の反撃を懸念しており、また、長い一日を戦った部隊の疲れも心配であったため、何樽ものビールとワインを前線に持ち込んだ。兵たちは、その夜は、睡眠と、新たな攻撃への不安とがないまぜになっていた。 この戦闘の知らせは、ルイブール陥落の知らせの直後にイギリスに届き、ルイブールを落とした祝勝気分を削ぐものとなった。1758年のイギリス軍の勝利は、本国にすべてが届いたのは年も押し詰まってからで、ピットが、ヌーベルフランス攻略の主要段階である、フロンテナック砦やデュケーヌ砦の陥落を知ったのもこの頃であった。もしカリヨンが1758年に陥落すれば、ヌーベルフランスは1758年または1759年には、イギリスのものになるはずだった。この時カリヨンが守られたため、モントリオール(最後のフランスの抵抗の拠点であった)の降伏は、ルイブール陥落の指揮官であったジェフリー・アマーストによるオスウェーゴ砦の戦い、ケベック攻略、そして1759年のタイコンデロガの戦い(カリヨンは、後に、アマーストによりタイコンデロガと改名された)を経て、1760年となったのである。 アバークロンビーが軍を率いたのは、この時が最初で最後だった。ジョージ湖ではやる気を見せていたものの、7月13日に決定した、ジョン・ブラッドストリート指揮のフロンテナック砦の戦いではわずかな支援しかせず、ブラッドストリートは7月23日に3.000人の兵とともに出発した。そしてアバークロンビーは、その後の戦闘には、兵員不足を強調し、支援を拒否した。8月、首相のウィリアム・ピットは、陸軍の軍事戦略を練っていたが、カリヨンでの敗退の知らせを受け取り、9月18日にアバークロンビーに手紙を送った。「国王陛下は、適切な判断をくだされた。貴官は帰国されるべきである」 アバークロンビーはその後も昇進を続け、1772年に陸軍大将にまで上り詰めた。 イギリス軍と同盟を結んだインディアンたちが、軍の総崩れをじかに目撃したことで、その後の彼らとの関係がややこしくなったインディアンたちの間で、イギリス軍大敗の知らせが広がり、その後の戦闘で、インディアン戦士を募集する際、軍関係者の力が、より大きく問われることになったのである。
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