ケベック攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/08 14:09 UTC 版)
「チャールズ・ソーンダース」の記事における「ケベック攻略」の解説
1759年、青色艦隊の中将に昇進し、2月13日に旗艦ネプチューン(英語版)でカナダに向かった。他に、ノバスコシアで越冬していた少将のフィリップ・デュエル(英語版)、同じく少将のチャールズ・ホルムズ(英語版)に、陸軍の指揮官であるジェームズ・ウルフが加わった。 ハリファクスからのデュエルの出港が遅れ、主力艦隊がケベックに向かったのは6月になってからだった。艦隊は49隻の軍艦から構成されており、その内訳は戦列艦20隻、50門艦2隻、フリゲート艦13隻、小艦艇14隻で、うち22隻は、50以上の大砲と13,500人の兵を乗せていた。また、119隻の輸送船には陸海共同作戦に使う平底船が積まれていた。艦隊の総人数は、ケベックの人口よりも多かった。ソーンダースは艦隊を3つの分隊に分け、それぞれをフリゲート艦に先導させ、測量船と曳鯨船をつけた。 セントローレンス川の航行は困難を極めた。いまだかつてきちんとした海図が作られておらず、フリゲート艦以上の規模の船がここを安全に通ったためしがないといわれていた。ソーンダースは、同行している商船の船長たちをボートに乗せて、上流に流氷が残る川を調査させた。フランス軍が川からブイと水路標識を外しており、しかも堤防では砦の強化がなされていて、フランス軍から間をおかずに監視されているため、作業はおもに夜間に行われた。何度も川を往復し、適切な間隔をおいて探りを入れたうえで、ボートの位置を観測し、流れと潮を斟酌し、形式に沿って水深を記録した。調査には忍耐と技術が必要だった。 6月20日、輸送船にセントローレンス川を上る信号を掲げ、1週間後、ソーンダースの艦隊はケベックへと突き進んだ。 6月27日、ソーンダースは、ウルフのオルレアン島上陸を援護した。ケベック攻略がうまく行くかどうかは、結局は海軍にかかっており、8月の終わりにウルフの部下で准将のロバート・モンクトン(英語版)、ジェームズ・マレーとジョージ・タウンシェンド(英語版)と、ソーンダースによる話し合いがもたれた。その後、将軍ウルフにより、ケベック郊外の台地エイブラハム平原で、フランス軍を迎え撃つことになった。そのための軍勢を、会戦前夜に、船でセントローレンス川を上って、峻険な崖を上った台地に配置してしまおうというもので、ソーンダース自身の表現を借りれば「非常に批判されるべき、そして実に適切でうまく指揮された作戦」だった。実際、この時の上陸作戦は世界初の、本格的な陸海両用作戦といわれている。 詳細は「エイブラハム平原の戦い」を参照 戦闘が終わってからも共同作戦は続けられ、ケベックのフランス人駐屯部隊は、ついに9月18日に降伏した。 この作戦の成功には、航海術や測量技術の向上なども貢献していた。若いころのジェームズ・クックも、この艦隊に、軍艦ペンブローク(英語版)の航海長として名を連ねていた。クックはセントローレンス川の調査で名をはせ、天文学と数学の知識を生かして、海図を製作した。後にソーンダースは、海軍省から、この海図の出版許可を得た。 ケベック攻略後、ソーンダースは雑用の処理に携わってから、セントローレンス川結氷の前にいったん帰国し、翌年の春に再びケベックに戻った。
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