ケベック州首相第1期
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「ルネ・レヴェック」の記事における「ケベック州首相第1期」の解説
1976年のケベック総選挙でレヴェックのケベック党は大勝し、レヴェック自身も議席を獲得した。ケベック党は41%の票を獲得し、110議席中71議席を獲得。レヴェックはその10日後、ケベック州首相となった。施政表明演説では有名な言葉「ケベック人であることにこれほど誇りを感じたことはない」と語った。 1977年2月、レヴェックの運転する自動車が道路に寝ていたホームレスをはねる事故が発生した。現場の警官は飲酒の疑いがなかったため呼気テストを実施せず、その晩眼鏡を使用していなかった罰金25ドルが課せられただけだった。事故で妻ではない女性が同乗していたことが発覚し、さらに悪評の元となった。同乗していたのは古くからの秘書のコリーヌ・コテで、その後(既に妻とは長期間別居していた)間もなく離婚し、1979年にコテと結婚した。 レヴェックの「政治資金規正法」は民間企業の政治献金を禁止し、個人献金も3000ドル以下に規制した。この法律は富裕者層や組織が選挙で不公平な影響を与えることを防止する狙いがあった。また住民投票法を制定し、州規模での独立への住民投票が可能なようにした。 レヴェックのケベック党はさらに「ケベックフランス語憲章(101条項(Bill 101)として有名)」を制定。この目的はフランス語を「仕事、教育、通信、通商、企業での日々の通常の言語とする」というものであった。当初の法案では、親がケベックでの英語学校に通っていた子には、英語の公立学校へ通う権利を保障していた。移民が多数のフランス語文化に溶け込むようにするため、その他の子はフランス語学校に通う義務を持つとした(レヴェックは言語政策に関し、党内の他のメンバーより柔軟な考えを持っていた。党内には英語公立学校を廃止すべきと提案する過激派もいた)。 101条項はまた、企業が屋外広告でフランス以外の言語を使用することを禁じた(他の言語を表示する場合は、仏語訳を他言語より大きく表示する必要がある)。当時は仏語系住民が8割以上であるケベックでも、広告や企業の言語は英語が圧倒していた時代であった。 1980年5月には選挙公約通り、「ケベック独立(主権連合への計画の是非)」を問う州民投票(レファレンダム)を実施。結果は賛成40%、反対60%(投票率86%)。レヴェックは「『また次の機会に』という州民の判断を理解した」と発表し、敗北を認めた。 1981年のケベック総選挙でもレヴェックはケベック党を勝利に導き、 41%から49%に獲得票を増やし、議席も増やした。
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ケベック州首相第1期
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「ロベール・ブラッサ」の記事における「ケベック州首相第1期」の解説
ブラッサは1966年にケベック立法議会(ケベック州議会)の議員として(モントリオールの)メルシエ選挙区から選出され、1970年にはケベック自由党の党首選挙で党首に選出された。自らを若手の優秀な実務家として位置づけ、雇用創出を最重要課題とし「100,000 jobs」(10万人の職を創出)をスローガンとした。ブラッサはケベック州の巨大な水力発電資源をケベックの近代化と雇用創出を実現する最も効率的な原動力と考えた。1970年のケベック州総選挙で保守系の与党ユニオン・ナシオナールを破り、ケベック史上最も若い州首相となった。 1970年に副首相兼財務相ピエール・ラポルテが誘拐され暗殺されるというオクトーバー・クライシスが発生すると、ブラッサはカナダ首相ピエール・トルドーに戦時措置法の発動を求めた。 ブラッサとトルドーは連邦政府と州政府間でよく対立した。特にトルドーはケベック・ナショナリズムは連邦政府の統治を脅かすケベック独立への譲歩として考えていた。1971年にはヴィクトリア憲章の憲法改正の動議に一度加わったが、ケベックへの権利増強が不十分との批判を受け、ブラッサが支持を中止すると、動議自身が勢いを失った。 ブラッサは任期中、ケベックにおけるフランス語政策の強化を目的とした政策を実行した。1974年にケベック公用語法(Loi sur la langue officielle)を制定し、フランス語が州唯一の公用語であることを宣言した。その結果、英領北アメリカ法(カナダ憲法にあたる)下では英語話者の権利は保障されているものの、ケベックは公式に英仏二カ国語の州ではなくなった。多くの企業や専門家はこの条件で事業を行うことが出来ないため英語話者からは憤慨され、仏語話者からは十分でないと中傷された。 ブラッサはジェームス湾水力発電事業を1971年に開始し、1975年には「ジェームス湾北ケベック合意」をその地域居住の先住民族であるクリー族およびイヌイットと締結した。ブラッサ政権は1976年モントリオールオリンピックの運営時にも、費用増大と建設遅延から救うなど大きな役割を果たした。しかしその後、汚職スキャンダルに巻き込まれることになった。 ブラッサは1976年の総選挙では、汚職スキャンダルや言語論争を受け、ケベック独立派のケベック党党首ルネ・レベックに大敗した。
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