ケベック遠征計画とは? わかりやすく解説

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ケベック遠征計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/08 07:17 UTC 版)

ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の記事における「ケベック遠征計画」の解説

1757年向けてルードゥーンが立てた作戦は、1756年9月イギリス本国政府提出されヌーベルフランス中心地であるケベックに、遠征隊を派遣することに焦点当てていた。これは純粋にヌーベルフランス辺境沿って如何に防御すべきか、その作戦を練るもので、オールバニモントリオール中間にあり、争い絶えない経路であるハドソン川シャンプラン湖遠征路含まれていた。1755年ジョージ湖の戦い続いてフランス軍カリヨン砦(現タイコンデロガ砦)をシャンプラン湖南岸建てており、一方でイギリス軍は、ジョージ湖南岸ウィリアム・ヘンリー砦建てており、その16マイル(26キロ)南にもエドワード砦(英語版)を立てていた。この2つの砦の間には、ジョージ湖中心に手つかずの自然が残されており、歴史家のイアン・スティールの著述によればジョージ湖は、軍隊のためにあるよう水路である。敵の砲撃など、たかだか数日おきにしか来ない」 ルードゥーンの作戦は、ケベックへの遠征到着が、時宣得たのであること、フランス軍辺境への遠征に対して動き取れなくなるため、ヌーベルフランスの要であるケベックを、セントローレンス川沿って守らざるをえなくなることを前提にしていた 。しかしながら本国政府では、北アメリカヨーロッパ双方での七年戦争による、勢力移り変わり混乱をきたし、ウィリアム・ピットが、軍事支配権を握るまでになっていた。そのためルードゥーンは、この遠征計画に関してロンドンから返事をもらえたのは、1757年3月になってからだった。この返事が来る前に、ルードゥーンはケベック遠征計画をより発展させ、13植民地総督たちと共に辺境協力して守り民兵に、それぞれの地域割り当てることを考えていた。 1757年3月に、ウィリアム・ピットからの命令最終的に届き第一標的として、イル・ロワイヤル(現在のケープ・ブルトン島)の大西洋岸にあるルイブール砦への遠征求められた。物質的な不安はなかったものの、辺境地帯何が起こるかが大きく懸念された。セントローレンス川沿いに常駐するフランス軍は、ルイブールへの援軍は遠すぎて不可能だろうが、結果として辺境地帯あちこち動き回ることは可能と思えたからだ。ルードゥーンは、ルイブールへの遠征のために最良部隊選び出しニューヨーク植民地辺境地帯指揮官として准将のダニエル・ウェッブ(英語版)を配したウェッブには2,000から成る正規兵が任されたが、その中心になるのは、第35歩兵連隊英語版)と、第60歩兵連隊英語版)からの兵だった。13植民地からは、5,000人の民兵参加した

※この「ケベック遠征計画」の解説は、「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の解説の一部です。
「ケベック遠征計画」を含む「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の記事については、「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の概要を参照ください。

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