ケベック州首相第2期
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「ルネ・レヴェック」の記事における「ケベック州首相第2期」の解説
2期目の主な関心はカナダ憲法改正案の批准だった。レヴェックはカナダ首相ピエール・トルドーや英語圏の州首相たちに騙されていると批判されることもあった。現時点でも、ケベック州ではどの政党出身の州首相も1982年の憲法改正に合意していない。 ケベック党政権は1980年代初期の不景気に対する対応で、党支持や独立運動支持の中核だった労働組合からの不評を買っていた。そのためレヴェックは1985年のケベック総選挙では独立運動を党の中心議題にすべきでないと主張、その代わりにカナダ首相ブライアン・マルルーニーの政権の理解を取り付ける「ボー・リスク(Beau risque、良いリスク)」戦略を提案し、逆に党内の独立支持派を憤慨させる結果となった。レヴェックは次回総選挙では独立の是非を問うのではなく、オタワの連邦政府にケベックの要求を真剣に議論させ、ケベック州民がより大きなメリットを享受できるよう協働すべきであると語った。この主張はレヴェックの党内支持基盤を弱め、辞職するベテラン議員や補欠選挙で敗北する議員も出た。レヴェックはケベック党首を1985年6月に辞任し、 同年10月にケベック州首相を辞職した。 レヴェックは常時喫煙者であり、1987年11月に居住していたアパートで胸の痛みを感じ、その日のうちに病院で心筋梗塞により死去した。10万人以上がモントリオールとケベック・シティーでの遺体の一般公開に訪れ、ケベック・シティーでの葬儀の弔問客は1万人を超えた。その後数ヶ月、墓地への何百人もの訪問客も途絶えることはなかった。 レヴェックはフランスのレジオンドヌール勲章(グラントフィシエ)を受勲しており、死後2008年にケベック勲章(グラントフィシエ)を受勲した。
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ケベック州首相第2期
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「ロベール・ブラッサ」の記事における「ケベック州首相第2期」の解説
ブラッサは1985年の総選挙でケベック自由党の党首として出馬したが、自身は地元の選挙区でケベック党議員に敗北した。その後、1986年のサン・ローラン選挙区補欠選挙で再選した。ケベック州首相としての2期目では、フランス語憲章の一部を違憲とするカナダ最高裁判所の判断を、「自由と権利に関するカナダ憲章(The Charter of Rights and Freedoms)」の33条(拒否権条項)を引き合いに出し無効と主張し、英語話者の閣僚が辞任する事態となった。しかししばらく経って、フランス語憲章を一部改定も行い、ケベックでの言語議論を下火にする結果となった。 ブラッサはまた、カナダ憲法上ケベックを「特別な社会」と表現するよう認めさせ、憲法改正議論の中でケベック市民の不満をカナダ内でも解消出来るよう主張した。時のカナダ首相ブライアン・マルルーニーと協力することで、1987年の憲法改正ミーチレイク合意と 1992年のシャーロットタウン合意議論を通じ、連邦政府から多くの譲歩を引き出した。ミーチレイク合意は1990年にマニトバ州とニューファンドランド州でそれぞれの州首相が合意したものを、議会が批准拒否したことで成立しなかった。シャーロットタウン合意は1992年にブラッサが譲歩しすぎとの印象が広がり、ケベック州での州民投票の結果否決され、成立しなかった。
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