言語論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 14:35 UTC 版)
詳細は「言語論争」を参照 1913年までは、テクニクム付属の高等学校の授業がヘブライ語で行われることは間違いなかったが、問題はテクニクム自体の方で、未発達であった当時のヘブライ語において、学習書、教育者、専門用語そのもの全てにおいて不十分で、授業はドイツ語で行われるものとされていた。 テクニクムの教育言語をヘブライ語でなくドイツ語とすることをナタンが決定した時、問題が浮き彫りになった。付属高校の目的は、後にテクニクムで学ぶ学生を育て上げることであり、当然同じ言語で学びを継続すべきであるため、議論はまったくの現実問題となった。この決定はシオニズム共同体を激怒させることになった。何故なら最初から付属高校およびテクニクムの大部分の教科の主要言語はヘブライ語となると約束されていたし、ヘブライ語の近代化が国民の誇りの象徴になるはずだったからである。ヘルツェリア高等学校を中心とする反対と非難の波が起こり、イシューヴで広がっていった。両者間の議論は辛辣であり、エズラ協会によってテクニクム建設計画の責任者として任命され、ヘブライ語支持側でもあったシュマリヤウ・レヴィン博士をついには辞職にまで追い込んでしまった。1913年、第11回シオニスト会議において、シオニスト機構がイスラエルの若い世代の教育を案じねばならぬという要請を受けてレヴィンは演説に立った。1913年10月26日、ベルリンのテクニクム施設管理局において教育言語を決定する会議が執り行われた。その決定とは、ナタンの提案を受け入れ、ドイツ語で教育するというものであった。 この決定によって施設管理局のシオニストであるメンバーは一斉に辞職し、イスラエルの地ではエズラ協会に対する激しい弾圧運動が起こり、教育者組合のうちでテクニクムに対するボイコット声明を発するまでに至った。(これは象徴的行為だけであって、テクニクムと高等学校は建ったが、実はまだ先生は必要ない段階であった。) この言語論争がきっかけで計画続行のための寄付金贈与者は見つけられず、資金不足によって建設作業は中断、施設の開始は延期せざるを得なくなった。直接的な結果は、労働者の解雇、そしてイスラエルの地におけるエズラ協会に対する不和の増加であった。エズラ協会には降伏を余儀なくされ、1914年2月22日に開かれた会議でテクニクムの教育言語はヘブライ語にすると宣言することとなった。
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